井田英夫ウェブサイト

新潟絵屋で2002年から13回の個展を開いてきた井田英夫さんが、27日(2020年4月27日)午後1時17分に亡くなりました。

井田さんは2年前(2018年3月22日)には呉の病院で膵臓の癌を剔出しました。手術は成功し、2019年7月には絵屋で、滞在を続けていた広島県の音戸で制作した作品による個展を開催しましたが、その後癌細胞の転移が見つかり、昨年末から抗がん剤治療をおこなってきました。しかし春にその治療を終了し、4月7日故郷の新潟に帰ってきました。自宅で療養中のところ、17日に体調をくずして下越病院に緊急入院し、また絵を描きたいと家族にも話しながら、帰らぬ人になりました。

井田さんは新潟で、久留米で、広島で、そして若き日に留学したアメリカで、沢山の人々と出会い、穏やかで優しい人柄で、親しまれました。その日常を見つめる、独特な、色の明るく美しい絵には、人柄と共に多くのファンがありました。

偲ぶ会の開催もままならないこの時節ですが、井田さんの思い出や、亡き井田さんに贈る言葉、画像などを自由に投稿していただける特設サイトを御用意しました。
Facebookなどに寄せていただいたコメントや画像も、このサイトに転載させていただいています。


4月30日、井田英夫さんの葬儀が故郷の新津で営まれました。多くの方に慕われた井田さんなので、ほんとうは大勢の方がその場に集いお見送りされたかったと思いますが、時節柄叶いませんでした。この場でそのようすをお伝えします。

撮影・編集 高橋トオル

井田さんに贈る言葉

※送信したメッセージはすぐ公開されます。内容をよくご確認して送信ボタンをクリックしてください。

メッセージを編集する際に必要になります。

高橋トオル

2023.04.27.21.23

今日は井田さんの命日。画集も刊行されました。3年間、本当にお待たせしました。…喜んでもらえたかな。

いまい

2023.04.24.23.17

2020年4月8日
音戸から自宅に戻る途中、三条インターで降りて食べたラーメンが人生で一番美味いと言っていた。
これが最後のラーメンになったね。

27日は3回目の命日。
インスタントラーメン持って
お線香上げに行きますよ。

SOU間 前岡

2023.04.24.20.14

昨年は江田島デッサン会のメンバーの力添えで、メンバーの作品と井田さんの作品をお借りして、江田島学びの館で一か月ほど展示会を開催できました。
なかなか好評でしたよ。
今年もデッサン会やります。

楽しみにしてた画集とどきましたよ。
みなさまありがとうございます(^^)/

今井正人

2023.04.22.20.29

井田くんへ

3年目の命日(4/27)を前にやっと画集が出来上がって今日支援者の方々に発送する事が出来たよ。

3年かかったけど皆さんのご尽力のお陰で素晴らしい画集が出来上がりました。

井田くん、遠い空から支えてくれてありがとう。

この画集は君がここに生きていた証です。

皆さんの心にずっと残っていく事を心から願っています。

この場を借りて全ての皆さまに感謝いたします。

有難うございました。

summer茶

2022.12.29.00.14

ベースの
猫 チャリティとかで検索してたらたまたま見かけて
惹かれたから色々見てみる。
絵に惹かれることなかなかないから
(どっこいしょ、、、)()()
見てきた
ローレライと白い花のやつだけとりあえず好きw
ローレライの目線が好き

SOU間 前岡

2022.07.01.15.33

今年もデッサン会やりますよ。

SOU間  前岡 正伸

2021.12.05.11.21

井田さんへ
ことしも、江田島デッサン会を開くこができました。
皆さんも応援にかけつけてくれましたよ。

松下 修

2021.09.10.21.26

思い返すと色々な思い出でいっぱいになります
無骨でぼそぼそとしか話さない井田君
バスケットの試合で楽しそうにしている井田君
私の店で旨そうにウイスキーを飲んでいるいる井田君
小さな屋台で大きな体を屈めてラーメンを食べていた井田君
あれだけ大きい体なのに控えめで、謙虚でした

久留米を離れるという事で引っ越し業者を探していると相談され
費用が結構掛かるという事実を聞き
久留米での集大成として個展を開いて引っ越し費用を作れば良いと提案した時も
謙遜して誰も来ませんよと言っていましたが
井田君の人柄なんでしょうね、
個展の案内の新聞を見て、色んな町の方々があの時の大きな体の絵描きさんの兄ちゃんだと知り
かなりのお客様に恵まれて大成功でした
いろんな場所に自転車で行きジーと座って描いていると皆気になるんでしょうね
自転車が可哀そうなくらいでしたから (笑)
今日はこれを頂きましたとか、差し入れをもらったとか良く聞きました

その後も、私が新潟を訪れた際に車であちこち案内してくれました
新潟絵屋さんにも案内してくれましたね、タレカツ丼も旨かった
海沿いの灯台のような螺旋階段で上る展望台にも行きました
でかい男二人で来るとこではないなと笑いました

病気を発症してからも逐一、連絡をくれました
治療中も小戸のお仲間とわざわざ久留米まで顔を出してくれました
いよいよ小戸を離れ新潟に帰ると連絡をもらった以降は便りがなかったので
これっきりかなと、、
その後、訃報を知ったのは新潟県のお悔み情報でした

久留米で過ごした日々は楽しかったのかな
今も描いている姿が思い浮かびます
井田君はどこに行っても、どんな人とでも仲良くなれるから安心しています

最後に
ここまでメッセージを書く事を躊躇していましたが
皆様のメッセージを拝見していたら、そろそろ認めて
メッセージを書こうと思いました

藤原香代子

2021.05.07.21.11

10年ほど前、三方舎の個展で井田英夫さんにお会いした時の写真です。絵描きさんが子どもと一緒に絵を描きます、という一文に惹かれ、娘たちをつれて行きました。
初対面の子どもたちが、縁側で楽しげに笑う声を聞きながら、ゆっくりと井田さんの絵をみさせてもらい、コースターに描かれた小さな田園風景の絵を買いました。
展覧会の案内に入っていた、直筆のお手紙がうれしく、返事を書いたのに投函しなかったことを悔いています。
あれからあの絵はどーですか?と書いてあったので、今ごろですがお答えします。仕事場にあって時々話しかけたりしています。
すてきな時間でした。これからもまた、続いていくと思います。あの絵を見ると、やさしい気持ちになります。ありがとうございます。

金塚 仁子

2021.05.01.21.37

井田くんが、天国に行ってからあっという間に1年がたちましたね。
元気に絵を描いていますか??
桜が咲く頃、井田くんが良く絵を描いていた実家の近くを通りました。
何もない田舎道、でも井田くんの瞳には
きっと、キラキラと輝く何かが写っていたのですね。いつか、また同級会でみんなで語り合いたいですねー!!
ありがとう、またね!!

千葉ひろみ

2021.04.27.23.54

英夫さん、今日一日頭の中が英夫さんでいっぱいでした。
英夫さんを知る人は皆そうだったと思います。
今夜の月はとてもきれいですよ。
そろそろ寝ます。夢で会えますように。

七里 知子

2021.04.27.07.54

井田さん、おはようございます。
一年後の朝が来ました。

井上美雪

2021.01.01.14.27

新しい一年がはじまりました。
昨年は多くの方から画集刊行に向けて支援金をお寄せいただきました。
この場を借りて、厚く御礼申し上げます。
2021年も引き続き作品調査と撮影など地道な作業が続きます。
長らくお待たせすることになりますが、どうかたのしみに待っていてください。

大倉 宏

2020.12.23.09.04

12月21日、22日の2日間、新津本町の三方舎さんへ小口の井田さん宅から絵を運び、78点の撮影をおこないました。井田さんの家では今年亡くなられた英夫さんとお母さま2仏のための新しい仏壇が、床の間に収まっていました。
お参りのあと、引戸に蒔絵で第2音戸大橋が描かれたオリジナルなけやきの仏壇をしみじみ眺め、お父さんのお話しを聞きながら、井田さんがアンティエ・グメルスさん、上原木呂さん宅から引き取った猫のローレライの、背骨の浮き出た背中を撫で、鼻をこすると、猫は気持ちよさそうに目を閉じていました。
撮影は今後も続きます。

井上美雪

2020.10.26.00.11

きょうは、新津のご実家にお邪魔します。画集に載せる候補作を選定したり、ママレモンのいい絵があるはずだという情報が寄せられたので確認してきますね。
資料を見直したり、絵を調査していると、井田さんのあしあとを辿るような感じです。
2年後刊行をめざして、がんばりますね。

*写真は2020年9月井田英夫生家にて

協同組合 建築設計団SOU間 代表理事 前岡 正伸

2020.09.22.15.03

井田さんへ。
井田さんの仲間のお力で、今年も江田島デッサン会を開催することができそうです。
あなたの残してくれたものは、ここ江田島でもしっかりのこしていきます。

村松

2020.08.25.18.32

美雪さんが、井田さんの朝顔の写真を送ってくださいました。
大きくて美しいですね。
お空の上で朝顔の絵、描いてくださいね。

一在家仏教者 仲山國重

2020.07.13.10.55

井田英夫さんに出会えて、ありがとうございます。
2009年6月に、新潟絵屋にて、初めてお会いして、井田さんの自己紹介に、「この作品を描いたのが、私です。」と、胸を張っていたことを思い出します。わたくしは、作品を説明されているうちに、「この作品の自転車が、いろいろな出会いを運び・届けてくれるのではないか。」と感じました。
この作品を、お預かりしたいのだけれどもと話すと、井田さんは「こういう事は、井上さんという方が担当なので、明日話したらどうですか。」という事でした。そうか、ここは「新潟絵屋」という画廊なのだと知ることになりました。
それ以来、わたくしは、美術三昧として、東京から新潟絵屋・砂丘館へ通うようになりました。
そのうちに、2011年6月に、九州、久留米での「井田英夫 絵画展」を、拝見しにゆき、久留米での友人の方々を紹介していただき、ゆっくり語ることができ、「新潟絵屋にて、お預かりできた絵の自転車が、わたくしに、良い出会いを運んでいただいているということと、井田英夫さんのお人柄がより理解できました。展覧会の帰りに、東京で個展を開催したときに作品をお預かりした絵描きさんで、一度、福岡、直方市のアトリエを訪ねてほしいという画家さんをおたずねして、後日、故高倉健さんの妹さんとの出会いに繋がることも、井田さんの絵の自転車のおかげと思います。2013年9月27日には、その自転車の作品は、砂丘館にて「絵を見る話しの会」で、再度、展示されることになりました。美術評論家の大倉宏さんの作品についての秘話から、井田さんの作品への気持ちを知り、また、新潟絵屋に伺うと、思いもよらぬ出会いに恵まれる事などから、作品から得られる良い思いを自分だけが独占していてはと思い、「絵を見る話しの会」の、反省会の夜に、作品を砂丘館・新潟絵屋に、お預けすることを決め、大倉さんの了解を得ました。今も、自転車は、新潟絵屋・砂丘館に集う多くの方々に、幸運をもたらしているように思います。井田英夫さんの作品を通じての「メッセージ」が、伝わっていると思います。
「絵を見る話しの会」夜の会の興奮が冷めないうちに、東京に帰り、「計画された偶発性理論」に巡り合い、この話を井田さんにすると、自分にも理解できる考えですと共感していただきました。
わたくしも、この「計画された偶発性理論」を実践してきたものですが、井田さんは、わたくし以上に、まじめに実践されたように思います。
2017年7月の個展の時にゆっくり、お互いの人生について、お話ししていて、人生をよく考えている方だなーと思いました。わたくしの娘と同世代でありながら、70代のわたくしよりも、人生を深く知っているな。「おぬしできるな」というと、「これは、両親をはじめ、ご縁のあった皆様のおかげです。」とお酒をおいしそうに飲む井田さんが、今も忘れられません。ここ数年、美術三昧から宗教三昧の生活をしていましたので、井田さんにお会いすることもなく、旅立たれました。わたくしには、井田さんとの「計画された偶発性理論」について、語り明かしたことが忘れられません。わたくしのような「のんべーの人間」ともお付き合いいただきありがとうございました。また、別の世界で、語ることができると思います。それまで、より「計画された偶発性理論」を、深めておきます。
井田英夫さん、ありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます。(合掌)

参考:「計画された偶発性理論」について
個人の経験・実績の8割は予想しない偶発的なことによって決定されている。その偶然を計画的に設計、自分の経験・実績を良いものにしてゆこうという考え方です。以下の行動特性を持っている人に「その偶然」は起こりやすいと考えられています。
1.好奇心 2.持続性 3.柔軟性 4.楽観性 5.冒険心 以上。

写真:2011年6月14日から19日 
「井田英夫 絵画展」
(福岡県久留米市一番街多目的ギャラリーにて)

五十嵐 匡輝

2020.07.08.00.08

井田さんと初めてお会いしたのは、2012年の三方舎書斎ギャラリーでした。
展示作品には、家電製品や洗剤容器、新潟の風景を描いた絵がありました。
絵画制作についてお話を伺ったところ、穏やかな口調で答えて頂いたことを覚えています。

最後にお会いしたのは2019年の新潟絵屋で、ベッドに座っておられました。
展示されていた広島の音戸の風景画がとても良かったです。

私が「井田さんの絵の、空と雲がすごく好きです」と言うと
「空や雲は描くのが難しいです。難しいけど、描いていて楽しいですね。」とおっしゃっていました。

井田英夫遺作展の案内が届いた時には、本当に驚きました。すごく悲しかったです。

2020年の新潟絵屋の展示作品に私の好きな、井田さんの空と雲の絵がありました。
絵の中の青空に浮かぶ白い雲を見ていると、その雲がなんだか井田さんのように思いました。
天気のいい青空を、気持ちよさそうに浮かんでいる雲。穏やかで優しかった井田さんにそっくりです。

急いでいる時ほど、立ち止まって、空に浮かぶ雲を見ていると、自分は何を急いでいるんだろうと思う時があります。
自分にとって大切なものを見失っていないか、雲が、井田さんが、今でも優しく教えてくれているように感じます。

井田さんに出逢えたことに感謝しています。
いつまでも井田さんのことが、井田さんの描いた絵が大好きです。

綾香

2020.07.04.07.25

私は井田さんの作品を見た時、どうしてこんなに剥き出しの日常を描くのだろう、とおもいました。
 
でも、いまは何となく分かります。
ありきたりな風景の中にも幸せは存在し
とてつもなく愛おしいものなのだということが。
 
そして、井田さんが生きて教えてくれたことは
山ほどあります。
 
一瞬間、一瞬間、同じ時はないこと。
おもったよりも、時間はないこと。
やりたいことだけをやるためには
得るものと失うものがあり
自分と戦い続けることの先に初めて
共感や賞賛があること。

私は、その全てが大好きでした。
有難うございました。
あなたを想う日はいまだ多く
いつかまた会えた時に話したいこともあり
その全てを大切に生きていこうとおもいます。

大竹(土田)かおり

2020.06.28.22.02

ずっとずっと絵を描き続けていた井田君がどこかうらやましく感じていました。
きっと世の中のほとんどの人が、自分のやりたい事を仕事にしているわけではないと思います。

ぶれずに自分の信念を貫くことは素晴らしい。
大切なことを静かに教えてくれていたように思います。

同級会開くときには、誘います。参加してください(^^)

野沢 達雄

2020.06.25.18.05

井田さん グッドバイ

3年前に音戸のアトリエを訪ねた。
二人でぶらぶら近所を散歩した。
瀬戸内の日差しの暖かさが背中によみがえる。
昼めしの時に飲んだビールはうまかった。
「じゃあ、帰ります」と渡し船に乗ったわたしを
船着き場から手を振って見送ってくれた井田さん。

グッドバイ
しばしのお別れだけど、
再会できたら二杯目のビールをいっしょに飲もう。

松本健宏

2020.06.23.22.31

井田さん、井田さんの人生は素敵だと思います。井田さんにお会いできて本当に良かったと思います。どうか、いつか宇宙でお会い出来たら嬉しいです。

監物美智子(井田英夫・姉)

2020.06.21.17.59

井田英夫生前中は大変お世話になりありがとうございました。
病気療養中もたくさんの方からの励ましや助けがあり、闘病生活もがんばって送ることができました。
家族からも改めてお礼を申し上げます。
たくさんの皆さまからの心あたたまるメッセージを拝見し、大変ありがたくまた嬉しく思います。
家族にも知らない一面も分かり、皆さまから愛されていたんだなとつくづく感じます。
新潟の自然豊かなところで育ったことが、絵や性格に影響したのかもしれません。
小さい頃から背が高く、牛乳とラーメンが大好きで、特に牛乳はよく飲んでいたので、他の家族は普通なのに飛び抜けて背が高くなったのでしょうか。
広島から新潟に帰ってくる道中、ラーメンを美味しく食べていたと聞きよかったなと思いました。
短い人生でしたが自分の好きな絵を描き続け、全うできたことは本人にとっては何よりだったと思います。
またまわりの人たちにも恵まれ、助けてもらえたことは何よりの宝だったことと思います。
猫のローレライは亡くなってから何故か仏間の遺骨のそばで寝ることが増えました。時々本人が家に来ているのか、何か感じるものがあるのかもしれません。
14日無事四十九日法要が終わりました。
7月より遺作展が新潟絵屋・砂丘館であります。
皆さまから見ていただけたら幸いです。

佐久間昌子

2020.06.15.09.51

14年前に私達が結婚した時に井田くんから描いてもらった絵です。
一生の宝物です。
井田くん、ありがとう。

佐久間昌子

2020.06.15.09.51

14年前に私達が結婚した時に井田くんから描いてもらった絵です。
一生の宝物です。
井田くん、ありがとう。

千葉ひろみ

2020.06.14.22.41

ひでおさん、
四十九日、大きな節目を迎えましたね。
今頃どんな風景を見ていますか? 
安らかな新しい世界で、好きな絵を思う存分、描くのでしょうね。

11年前にひでおさんがくれた絵、覚えていますか?
長女が拾ってひでおさんに渡した、欠けた落ち葉。

ひでおさん、手を合わせてひでおさんを想います。
心から、ありがとう。
天国で安らかに。

堀川久子

2020.06.14.14.54

井田くん、今日はあなたの四十九日ですね。でも、まあ、しばらくは家にもいてやってください。ローレライの夢の中で別な言葉で話してくれているといいけど。何かと、いつも井田くんを思い出しています。井田さんの絵を見ながら、想い出しながら、うまく言葉にならない井田さんの絵のことを、絵屋の井上美雪さんとよく話します。改めて、絵の筆の様子や色の様子や輪郭の曲線に感心して、井田英夫いいぞうって思っています。

七里 知子

2020.06.12.08.02

なかなか言葉を紡ぐ事が出来ず、遅くなってしまいました。

井田さんが居なくなってから、しばらくぼんやりしてしまい、淡々と日々を過ごしていたけれど、ああ人はこうして生きて行くのだと、しみじみと感じていました。

全く関係のない、ふとした時に井田さんの事を考えます。
こんな時、井田さんならどうするか、井田さんなら何を言うか、どうやって感じるか。きっと私にはない奥行きがあったから、至るところで意見を聞いてみたいと思ってしまうのかもしれません。

呉にキャンバス張りを手伝いに行ったり、そのうち出来たらと思っていたまま、実現出来ず仕舞いでした。
でも、呉から新潟に帰る道すがら、桜や菜の花が満開だったと喜んでいたのが、何よりも救いでした。

井田さんが居た時と居なくなってからでは、明らかに世界の見え方が変わったと感じます。
井田さんと親しくなれた事が、今、とても力になっています。
どうか安らかに。

梅田恭子

2020.06.04.18.43

いださん
,
いださんが亡くなったこと
堀川久子さんから最近、ききました
,
わたくしは入院ばかりしていて
絵屋便もうまく受け取れなくて
,
でもいださんの号はいつかじっくり読めるようになったらと、
手許に置いていました
,
それから少ししてやっと
いださんの絵と
大倉さんの文章と
同じくらい見返し、読み返し
ずっとしています
,
砂丘館でお仕事されていたとき、夜で
大きな人が優しくさよならしてくれました
,
嬉しかった、
,
これがほんとうのさよならに、
,
あたたかい余韻
,
いださん、
何故かこの頃わたくしも
具象画をかくときが
あるのです
,
そうしたら、そよ風でも吹くように
いださんの
絵に向かう姿勢が、みえる瞬間がしゅんっと
あって、

独りよがりかも、知れないけれど
そよ風がきっとまた吹いたら
,
いださんと
絵の中で
こんにちは、できると良いなと思っております

 久保安夫

2020.06.02.04.20

2014年に自宅から近い新関駅の辺りで描かれた「六月の暑い午後」。個展で井田くんは「この雲を見ていたら描きたくなって」と一言。2014年の気温を調べると、6月4日30.9℃とある。描いたのは、この暑かった日の午後なのだろうか。
初夏の田園風景や山の上に湧き立つ雲をスケッチする彼の姿が目に浮かぶ。
昨年の12月に井田くんから届いた葉書にはこのように書いてあった。
…こちらはなぜか元気でますますやる気がでてきました。小さい絵を描いたり1ヶ月くらいかけて大きいキャンバスの木枠を作ったりしています。まだ完成していませんが、絵を描く日が楽しみです。
来年の5月か6月に新津に戻って、新潟で治療の予定です。実家周辺や駅の周辺で描いていると思います。もし見かけたら、ぜひ声をかけてください。そして来年もどこかでお会いできるように元気に新津に戻りたいです…

のざわ 奈々重

2020.05.28.23.00

井田さ~ん!
今、どこに居るの?
あの空から、描きたい風景を探している最中かな。
スケッチブックを片手に持って、
街を、人を、暮らしを描いているのでしょうね。
私が生まれて初めて購入した絵が「桜」です。
飾ると部屋が明るくなって、力強い春への足音が聞こえてきそうな絵です。
ありがとうございました。また、お会いしましょうね。

谷田部佐智子

2020.05.26.14.54

井田君、初めて会ったのは歯の検診をと言ってみえた四ツ屋町にいた頃でしたね。絵を描いてますと言って、たくさんの写真に撮った絵を見せてくれました。それ以来、久留米から、音戸から帰ってくるたびに顔を見せてくれて、必ず、年に一度は検診もして、呉で入院した時は、歯の磨き方を褒められたと報告してくれました。そして、いつの間にか、井田君の絵が、いつも待合室に掛かるようになりました。患者さんが和む、いい絵ばかりです。人柄そのものです。訃報の後の今は、[親子]の絵を掛けてます。三方舎の個展の時に、これは手放したくないようなことを言っていた絵です。まだまだ井田君の笑顔が見たかった。ボソボソと話しをしたかった。井田君が気にかけていた、音戸に持っていきたかった胡蝶蘭が咲きました。見てもらいたかった。残念です。井田君と言う人間に会えて、本当によかった。ありがとう。又、会おうね。

ユキノ進 (歌人)

2020.05.23.12.20

いつかまた。いつか花咲く野辺で会うその時までの短い旅路

遠藤麻理

2020.05.23.08.57

その絵を初めて見たのは、いつだったでしょう。
窓辺にカラフルな容器の洗剤や柔軟剤が並んでいて、その下には、蛇口とピンクの洗濯かごが描かれています。窓が暗いので、おそらく夜。ありきたりな日常の風景を切り取ったその絵から、視線をそらすことができませんでした。
描いたのは、旧新津市出身の画家、井田英夫さんです。
個展を開催すると聞いてインタビューを申し込み、初めてお会いしたのが3年前のこと。梁に頭がぶつかりそうな背丈と大きな手のひら、まるで少年みたいに澄んだ瞳が印象的でした。
その後も何度か番組にお招きしたのですが、井田さんと話していると、話をまとめるということを忘れてしまいます。いい話を引き出そうとか、言い当てようとか、うまいこと言おうとか、そういうことがどうでも良くなるのです。
例えるなら、今くらいの時期の、柔らかい風が吹く大草原に、裸足で大の字で寝転んでいるような・・・つまりは安心で心地いいのです。心が解放され、自由になり、どんな自分でも認められ、許されるような気持ちさえしました。
広島の呉市音戸町で暮らしながら絵を描いていた井田さん。メールをやり取りしていたある日、こんなことがありました。
訪問したいという人から昼頃に電話があったので、掃除をして待っているのだけれど、約束の時間が過ぎてから2時間が経つというのです。
連絡もなくそんなことをされたら、大抵はイライラして怒り出すものですが、井田さんのメールには「きっとこのまま来ない気がするのですが、家もきれいになり、本の続きが読めたりと、イイ午後でした」。とありました。
ハンガーにかけられた青いTシャツ、風呂場のシャワー、洗濯バサミで止められた靴下やタオル、さっきまで寝ていた乱れた布団、夕暮れ時に影を作る電子レンジとその上の炊飯器。そんな、ふだん、当たり前にそこにあって、わざわざ目に止めるでもないことを丁寧に見て、優しい色で描いた井田さんは、4月27日、44歳で亡くなりました。
代わり映えのない日常は穏やかで幸せなことなのだということ、人は誰といても一人なのだということ、始まれば必ず終わるということ、だけど、今は確かにここに在るということ。
井田さんの絵から、私なりにたくさんのことを受け取りました。
亡くなった後、すぐにでもこうして井田さんのことを書きたかったのに、どうしても書けなかったのは、書いたら本当にお別れしなければいけなくなるという思いからでした。
だけど、こうして書けた今、井田さんが、前より近くなり、隣で微笑んでくれているような気がしています。

*写真について
井田さんが送ってくれる写真も、まるで一枚の絵のようでした。
これは一昨年の3月14日、病院の窓から見える風景を撮った一枚だそうです。
「今日は、暑いぐらいで、病院敷地内の桜が開花しましたよ!聞くところによると、いつも一番早く咲く桜で、他が満開の頃には、散っているそうです。
海には、海上自衛隊の艦船などが。今日も、体調は万全です。久しぶりに風呂にも入れましたし。」と添えてありました。

・新潟日報生活欄の連載「遠藤麻理のなんとかなる」に井田さんについて記事が掲載されました(2020年5月22日)。筆者遠藤さんのご了解を得て、転載させていただきました。

阿部守

2020.05.22.21.21

井田さん、新潟絵屋で気さくに声を掛けてくれた井田さん、こんな私にもマメにメールや絵葉書をくれた井田さん、優しくておちゃめな井田さん、井田さんも井田さんの絵もずっと私の中で生き続けてます。
ゆっくり休んでください。

大橋保隆

2020.05.17.16.22

去年の5月16日、17日
井田さんと旅行に行ったことを思い出しました
愛媛の松山に。

道後温泉に行って
正岡子規記念館に寄って。
軽バンの旅では
井田さんのサイズに合わなかったけど。
「卯の花の 散るまで啼くか ホトトギス」
何度も噛み締めていたように思います。

絵が良かったからと
去年のカレンダーを利用していましたね。
やっぱり
井田さんは井田さんでした。

白井陽子

2020.05.16.17.59

.
.
先日 遠く長い長い旅にいってしまった
新潟出身の画家
井田英夫さん
.
リトさんや天仁庵さんからの繋がりで
少しではありますが
楽しい時間をご一緒させてもらいました
.
その温厚で優しい人柄は
沢山の方に愛され
絵にも現れていると思います
.
以前 お見舞いにと差し上げたお花は
井田さんによって
優しい色合いで また命を吹き込まれ
見る人を暖かい気持ちにさせてくれます
.
いつも お庭のお花を愛でていましたね
.
最後にお会いした日
少しお話しする事が出来ました
天仁庵の絵を新潟へ持って帰って
描くのかと聞くと
この絵は この場所で この空気感の中で
描かないとダメなんだと言っていました
ギリギリまで 夜な夜な描いていたかと思います
.
これからは 音戸に帰ってきて
のんびりと 続きを描いて下さいね

どうぞどうぞ安らかに
.
.
(facebookより転載)

久保田さ和(maison de たびのそら屋)

2020.05.08.13.26

井田さん、
絵はいいですね

前とは違うこころもちでそんなふうに思えるようになったのは、井田さんと出会ったお陰でもあります。
自分にとって特別な作品と出会う気持ち、それが暮らしの中にあるしあわせ、お客様のその出会いの瞬間に立ち会わせていただいけるうれしさ… 
そういうことをひとつひとつ知っていく、この道のはじまりで出逢えた井田さん。

出会ってから僅か3年足らず。たくさんのお知り合いがいらっしゃる中に、突然舞い込んだような私にも、同じように、昔から知っているようなちかしさを感じさせてくれた井田さん。私たち夫婦共々、お慕いしながら、いつかたびのそら屋でも個展を開催させていただけたらいいなと、はるか遠くの頂を眺めるような気持ちで願っていました。

闘病にはお疲れ様と言いたい、出会えたことにこころから感謝したい、
それでも、幾晩明けても思うのは、この知らせが夢であったなら、ということですが、
その気持ちを無理に変換せず、うれしかった時間の記憶を寄り添わせながら、ひき続きこの道を歩んでいきます。

有志の皆様、特設サイトの開設、ありがとうございます。
これからもたくさんの方との間に井田さんが居ることを強く感じさせていただいています。

_________________________

画像は2019.7.22 新潟絵屋さんでの「井田英夫展」にて 
私の服もシマシマで図らずもおそろいになってうれしかった日

長文をしたためた拙ブログより一部編集・転載させていただきました。
https://tabisora4.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

中島尚子

2020.05.07.14.01

井田さん、傍らの井田さんの絵を見上げると、絵は必要だという確信が得られます。ありがとうございます。これからも見上げます。

高橋栄一

2020.05.06.23.52

井田さんの訃報はフェイスブックで知りました。歳が近いのでショックでした。そして、あらためて自分の命も親の命も当たり前だけど、限りあるものなんだなと教えていただいた思いです。
初めて井田さんにお会いしたのは、井上さんからお声がけいただき参加した華雪さんのワークショップ。少し早く会場について、ベンチでご挨拶させてもらった。でかい人だなぁという印象。。。確か新聞か何かで見た記憶があり、名刺をいただいて、あぁぁという感じだったのを覚えています。絵を買ったことのない私でしたが、あの時のでかい井田さんがガンと聞き、少し考えさせられることもあり、支援の意味でもでかい井田さんの原寸の青いセーターの絵を買いました。初めて絵を買いました。私も自分で仕事を初めて1年目。絵に向き合って毎日仕事をしています。その後、絵屋でお会いした時には、体力が厳しくて、大きな絵はもう難しいという話をされていました。後の手紙で、実は原寸の赤のジャージを描いていると。これは楽しみだ。完成したらこのセーターの隣にかけようと考えていました。

私が知る井田さんは、このくらいですが、これほどたくさんの皆さんに偲ばれ、また絵も含めて愛されている井田さんはとても素敵な方だったんだろうなと。そしてうらやましく思います。
ご冥福をお祈りいたします。

蓮池もも

2020.05.06.22.27

井田さんが私のことを「同僚だと思っている」と言っていたと、いつか安曇さんが教えてくれました。同じ新潟出身で、絵屋で個展を重ねていること、一度も就職せずに描き続けているところから、そんなふうに思ってくれたのかもしれません。
びっくりして、嬉しかったけれど、私にはもったいない言葉でした。私は井田さんのように全てを絵に傾けることはできなくて、でも、井田さんが私を「同僚」と思っていてくれたことは、私にとって大きな支えでした。とても心強いことでした。そのことはこれからもずっと、私を支え続けてくれると思います。
井田さんの身体がもうこの世界にないなんて、まだ信じられません。写真を見ると、あの声や話し方や表情、仕草が蘇ってきます。さびしくて悲しいです。いつも穏やかで、優しくて、独特のユーモアがあって、大きいのに全く威圧感のない、不思議なひとでした。病で苦しい状態の時でも、手紙やメールにはいつも、相手を気づかう言葉がありました。新潟へ帰って来て入院する前の最後のメールには「また会いましょうね」と書いてありました。
井田さんの目を通して見る世界は、何でもないようなものまで全てが愛しく美しく、光をあてられ存在していました。井田さんにしか描けない絵でした。もっともっと、おじいちゃんになるまで、描いていたかっただろうと思います。私ももっともっと、井田さんの新しい絵を見ていたかったです。

堀川久子

2020.05.06.12.18

井田英夫さん、井田くん、今頃、どの辺りにいますか?何を見ていますか?
 
 私の方は 昨日5月5日、母の四十九日の法要を無事すませました。もう少しの時間を経てから、向こうで母に会ってやってください。
 よく思い出してみると、私にとって初めて絵を買うということをしたのが、井田さんの絵でした。2002年の新潟絵屋で初めて絵を見て、描かれた色に魅せられて、きっと好きに違いないと母を連れて行き、二人で一枚の絵を選びました。ボストンで、女性が猫を抱いている大きなパステル画「ゾイとクローイ」です。それ以来、個展のたびに、いつも母にハガキをくださいましたね。
 私が持っているありったけの井田さんの絵を飾って、ささやかな祭壇を作りました。そこにアンティエさんや蓮池ももさんや、梅田恭子さんの絵が参加して話してもらおうと思います。
 ここにある最後の絵は支援展で選んだ2018年の2月呉で入院したばかりの時の足の鉛筆のデッサン。2017年の砂丘館の井田展の時に踊った時のチラシの裏に描かれたものです。
布団の絵に触発されて、和室に布団を敷いて踊り始めました。そして蔵の二階の音戸の夜景の中で、井田さんには初めての口琴を演奏してもらいました。
 去年の4月に、今朝夢見ましたとメールがありました。私が何本もの大きなろうそくに火をつけながら踊っていると。火事になっていなかったか?と尋ねましたら、どんどん明るくなっていましたが、火事にはなっていませんでしたよって。
 
 昨年2度、音戸に行く計画を立てながら、母の状態が安定せず行かずじまいでした。今年1月に再発した時にはとにかく行って井田くんの目の前で踊りたいと思いましたが、それもかなわないままでした。この初七日にご実家にお参りに行き、その時に、田坂さんから贈られていた音戸での写真集をみて、音戸での人と場所との出会いが本当に良かったのだなあということをしみじみ感じました。
 4月21日になんだかとても心配になって、とにかく看護士さんに容態を訊いてみようと下越病院を訪ねた時、たまたま部屋の外に出ようとしていた井田くんを看護士さんが連れてきてくださって、会って話すことができました。その時の一声は「自分がどこにいるのかよくわからないんです。夕方、会合があるので、そこに出かけなくてはいけないし」と言っていました。痛み止めの薬で眠気がきつく、夢を現実と錯覚してしまうのだろうと思いました。その日はきっと音戸に行ったのでしょう。「佐渡にも行った」とも言ってもいたので、きっとそのようにいろんな人のところを訪ねて行ったのではないかと思います。
その時の、痛みを抱えて、うつむき加減の笑えない顔が忘れられません。
闘病の日々、抗がん剤の副作用とその後のがんの痛みから解放されない日々、よく耐えましたね。楽になってほしいと、どうしたらもう少し楽になるかなあと思っていましたが、それは死という方法しか残っていなかったのでしょうか。

 出棺のお見送りに行った後、お葬式の祭壇を見ました。祭壇に潜り込んだ井田さんの絵は、全く違和感がないとでもいうのか、花の絵が花の中に埋れて、何か、こちらの気持ちを溶かすようにあることに井田さんの描く絵の美しさとその魅力を改めて感じたものです。

今、どの辺りから、私たちやこの世界を見ているでしょうか? そちらの世界はどんなでしょう。
これから思う存分、絵を描けるでしょうか? 

井田英夫という命にありがとう。
時々は、こちらにやってきてくださいね。

セキカワ アカネ(番組制作会社AD)

2020.05.05.17.02

井田さんへ

「井田さんを撮影したい!」とカメラ片手にお家へ訪れた私を快く受け入れてくれた井田さん。

一緒に3日間朝昼夜ご飯を食べて
色んなお話をして、絵を描くところを
見せていただきありがとうございました。 

撮った映像の中で、
井田さんはいつもの井田さんのペースで
笑って、食べて、絵を描いていました。

テレビを通して、番組として
井田さんに見ていただくことができませんでした。(見ていただけたら、井田さんは何て言ってくれたのかな)

いち画家として、制作する人として
井田さんを心から尊敬し、
いち人間として、その穏やかで
凪いだ海のような佇まいを
私は忘れません。

きっと今も空から見た
細々した街や、青い空や
小さな山や花を真剣な眼差しで描いているでしょう。
いつか私もそちらへ行ったら、またお話させてください。

井田さん、沢山の優しいお言葉と、
経験をくださって
ありがとうございました。

塩原悠一郎

2020.05.05.13.54

妻の友人として井田さんと知り合い、うちに泊まりに来てくれたりごはんを食べに来てくれたのがつい最近のことのように思い出されます。

僕は画家としての井田さんをよく知りません。
おそらく、絵の話もしたことがありません。
ただ、ごはんを食べながらなんとはなしの話をし、笑っていた記憶があります。

その後、発病され、もともと少なかった会う機会が減りました。
音戸で療養しながら暮らす井田さんとはたまに畑の様子をメールしたり。

そして、昨年父親が井田さんと同じ部位にがんが見つかりました。
自分のなかの不安や心配を井田さんは聴いてくれて、楽天的でもなく悲観的でもないそのままのことを話してくれました。
それからずっとお互いの病状についてやり取りをし、励ましあってきました。

こんな食べ物が効くよ、こんな本があるよ、今日は体調が良いよ、体調が悪いよ、新潟に帰れそうだよ、たくさんのメッセージをもらいました。

いつしか、親父も井田さんのことで喜んだり心配したり、僕を介して交流しているようでした。

親父の病状が良いことを伝えるときは井田さんは本当に喜んでくれました。

自分がきつい状況でも、常にこちらのことを思いやってくれる井田さん。

井田さん、この春、親父は田んぼへ出られるまでになりました。
本当なら二人を出会わせたかった。
そこで、お互いはにかみながら笑いあってもらいたかったです。

井田さん、たくさんたくさんありがとうございました。

坂内文應   俳人・僧侶 「白茅」代表

2020.05.05.12.18

3月27日に愛する義妹を亡くした。生命体ともいえぬCOVID-19の影響が生活にのしかかり見舞いにもひんぱんにゆけず、一人で病魔と闘い最期まで希望を捨てず、泣き言ひとつも言わず51歳でみまかった。
そして丁度ひと月が巡り、同じ日に井田英夫くんが逝去された。なんだよ、ともかくくやしい。
どんよりとした余花の空がいっそうに曇って、いっそうに暝い。
5月3日の初七日には、ひそかに本堂でお経をあげ、魂の安かれを祈ったところ。

井田くんは、まるで、スイフトの「ガリバー旅行記」のブロプディンナグ巨人国のこころやさしき青年のような俤にある。若描きばかりを残し、くやしいったらないよ。歳をとった本当の大人(うし)としての絵画もみたかったよ。もっとも、その頃には、僕自身もいないだろうけどね。

俳誌「白茅」の次期の表紙絵をお願いしようとの心づもりでいたが、闘病のこともあり言い出しかねてそれも叶わぬこととなってしまったし。
一度、音戸を訪ね、彼が絵を描く隣りにいてみたかった。草の上にでも坐ってね。そして彼の目玉の先にある遥かなものをを親しく確認してみたかった。この地上の終わらない日常、かけがえのない何でもない凡庸な時間の尊さを井田くんは、よく知っていて、持前の体温でそれを示せた稀有の作家だったよ。

それでも、沢山の作品を遺して逝ってくれたせいで、ぼくらは、井田英夫をこころの中に活かし続けることができよう。これこそ絵画の功徳。

仏教では、死を、元の世界に帰る、これを示して「実相」(ほんとに、そうだよなぁとと誰しもが肯える世界)に入るというんだけれど。
生前にこの実相を自分なりに表現することが全ての芸術の仕事ともいえて、よく頑張った君のことは忘れないよ。どうか安らかに。

井上美雪

2020.05.04.23.27

4月7日に井田さんが新潟に帰って、翌日荷降ろしのお手伝いに行きました。痛みが不意にやってくるので、時々顔をしかめ、かがむようにしていましたね。
それから12日に、
「オイルパステルや紙を箱のどこに入れたのか、忘れてしまった。そして、体力もなく」
と連絡をくれて、よるご自宅へお伺いしましたが、その頃は、吐き気と背筋の痛みでつらそうでしたね。あまりつらいので、絵に集中することを井田さんは思いついたのでしたが、思うようでなく…。
21日の電話では、詳しい内容は聞いてないけれどあとで小さい会合があって出かける予定と話してくれましたね。別な日には仲間とカレーを食べる話をしていたとか。まぼろし世界でたのしげだったからすこしほっとしました。
あとから、愛用していた華雪さんの万年カレンダー日暦を病室に届けてほしいとご家族に頼んでいたと聞きました。新潟に帰ってからお父さんと買いに行き、自分で組み立てたという棚に置いてありました。止まった日付の前に、植物が飾ってありました。井田さんですね。
遅くなってしまいましたが、井田さんがご自宅に帰ってから、枕元に飾りました。
四月二十七日
特別な日付になりましたよ。

大舘 麻里

2020.05.04.18.23

井田さん、初めてお会いした時からずっと、井田さんのお人柄に惹かれていました。

穏やかで気取らず、少しお茶目な井田さん。
いろいろとお話を聞かせてくださったり、ふわっと良かったことの報告を送ってくださったりするのがすごく嬉しかったです。
井田さんとの会話には必ず笑いがあって、周りのみんなをいつも幸せな気持ちにさせてくれましたよね。

祖父宅で母と一緒に写真を撮って遊んだ時や冗談を言ってよく笑った時には、大好きなお兄ちゃん!と思っていました。

最後にお会いできたのは、私が妹の出産のために広島に帰省した時です。
あの時に会えていなかったら、もっと会いたかった、話したかったと今よりずっと後悔していました。
優しい井田さんだから、そうならないように会いに来てくれたんだと今は思います。
その日も、いつものように母と3人、自由に話して至福の時間を過ごしました。
海外で絵を学んでいた時のこと、どんな絵が好きだとか東京のおすすめの美術館の話とか。
そんな普通の時間がまだまだずっと続くと信じていたから、今もまだなかなか受け入れられずにいます。
だけど、幸せをたくさんくれた井田さんだから、きっと、いつまでも悲しんでいる姿は見たくないですよね。

井田さん、たくさんありがとうございました。井田さんの優しさをずっとずっと忘れません。

Dwayne

2020.05.04.18.20

A wonderful, kind hearted man that I had the pleasure of meeting and sharing great memorable times with.

I vividly still remember the first time I met you.

You were always a joy to talk to. I enjoyed our talks about basketball, especially my hometown team the raptors, art and literature.

Even if it was for only a short moment in life, I am very happy that our paths crossed and we were able to meet one another.

When I think about it, life is pretty short and with that in mind I am only that much grateful for meeting you and sharing those wonderful times together.

I will treasure the life lessons you passed on to me forever. You are forever in my heart.

Your Friend,
Dwayne

大倉宏

2020.05.04.00.04

砂丘館の近くにあるNSG美術館(井田さんが卒業した新潟デザイン専門学校を経営するNSGーー新潟総合学院の美術館。現在お休み中)に立ち寄ったら、井田さん在籍当時、写真を教えていた小林敏哉(現在は美術館の館長代理)さんがいて、井田さんが卒業した年の卒業制作集を見せてくれた。
20歳頃の井田さんの自画像が2点掲載されていた。
この絵の講評をしたという記憶はあったけれど、絵そのものの記憶は、消えていた。
「ゴッホのような絵を描きたい」と井田さんが「プレゼンテーション」タイムに言っていた記憶はあった。
その言葉を聞き、絵を見て、時代に刻まれた矢印とは違う方向に歩こうとしている若い人がいるということに、自分のことのように「不安」を感じたのを、なぜか覚えている。
あとでそう話したら「当時はそんなに多くの画家のことを知らなかったので…」と井田さんは少しはにかんでいたが、彼がその後絵を続けることで描いた軌跡は、私たちの時代にくっきりした一つの溝のようなものを刻んだ。
そこに刻まれた形を「言葉」にする作業を、逝った井田さんに託された気がしている。

クマとイタチ

2020.05.03.23.12

 5月2日、偶然井田さんの訃報を知る。驚いて大倉さんに電話。大倉さんの話を聞きながら、クマとイタチは呆然とした。
 井田さんに直接会ったのは、実は2019年の井田英夫展が初めて。まだfacebookをまめにやっていた2018年、「井田英夫巡回支援展」のお知らせを絵屋の井上さんの投稿で知った。肺癌だったイタチの祖母のことが頭をよぎり、この見知らぬ井田さんにとても何かしたくなった。

 絵屋の展示で支援コンサートをすることになり、井田さんのことが知りたくなって先に支援展が開かれている三方舎へ急いだ。何かしたいけど何ができるのか…正直緊張していた。でも、三方舎に着いたらそんな緊張が吹き飛んで…!!
 初めて見た井田さんの絵は、どれもすごく生き生きしていた。木、空、ポット、猫、洗剤、布団、人、家、町、海……鮮やかな絵の中は、日常にある沢山の沢山の命で満ち溢れていた。噂の布団の絵が見たくて探したら、ひょっとするとまだ体温でぬるそうな、本当に本当に、ただの布団の絵が金色に輝いていた。夢中になってずっと眺めた。

 少し休憩しようと、一階の居間でコーヒーを戴きながらそこに居た方々とお喋り。三方舎の今井さんが井田さんの大きさを力説し、クマとイタチは「へー!! そんなに大きい方なんですか!!!」と感心した。井田さんは食パンが大好きで、食パンを一斤丸々食べてしまうとか。一斤の食パンを大きな手でちぎって「食べる?」と分けてくれようとするとか。「いや、いらないよ。」と断るんだとか。井田さんの話をする皆は笑顔で、井田さんのことが大好きなんだとよくわかった。その後も夢中で眺めて、でもまた観たくなって、次の日も三方舎へ。井田さんにはまだ会っていないのに、いつの間にか井田さんの絵も井田さんも大好きになった。

 支援展コンサートが終わった後日、井田さんの絵やコンサートの話を井田さんとしていたら、「こんなこと言ったら皆に悪いんだけど、絵もいっぱい売れてガンになって良かったなと思います(笑)」と笑っていて、心の中でイタチも「もう!!(笑)」と思っていた。

 そしてその翌年2019年の新潟絵屋「井田英夫展」。 まさかの作品に囲まれたベットに足を投げ出して座った井田さんは楽しそうに笑っていた。井田さんは座っているけど、立っているクマとイタチとそう言えば視線の高さがほとんど同じで、確かに大きかった。差し入れに実家の夏野菜を持って行ったけど、来年の井田さんの個展ではモリモリにお惣菜を作って、タッパーで届けようと心の中で誓った。きっと井田さんは美味しそうな顔で食べるだろう。
 個展で売っていた音戸ちりめん手焼せんべいの山椒味はとってもおいしくて、少し割って冷やしうどんの上にのせて食べたら止まらくなった。「これはいけないね!! 美味しいね!! 井田さんに教えなきゃ!!」と、うどんをすすりながらせんべいの袋の音戸の海を眺めた。

 そんな中での井田さんの訃報。
 井田さんは今マスクあるのかなって、特注の大きめサイズ作ってました。
 アパートのプランターでも野菜が作れたらと少しずつジャングルを育ててます。
 井田さんや井田さんの絵と知り合ってから、「あ、この景色井田さんっぽい!」と洗剤なんかを見て笑ったりしてます。
 クマとイタチは根性無しで臆病です。きっと大変なのに、筆を握り続けた井田さんのこといつも尊敬してました。

 5月2日、夕食は井田さんが好きそうなものをいっぱい作った。もしかしたら井田さんは立ち寄って食べてくれたかもしれない。今夜はこれからラーメンと抹茶あんこパフェを作ります。
 あちらの世界での楽しい新作、今度お会いしたら是非見せて下さい。 今から楽しみにしてます。

井田さん、本当にありがとうございます。また会う日まで!!!

ビルジャン純奈

2020.05.03.20.02

英夫、お疲れ様でした。
大学時代の英夫の絵を見ると、もうあれから20年以上も時は過ぎているのにあの頃にふと戻れるんだよね。なんとも言えないあの空気の流れが英夫の絵に詰まってるのよ。
帰国し、絵を一生懸命に描く日々から、私は会社勤めに追われる日常へと急に変わり、それでもまだ絵の道を選んで過ごしている英夫が、正直凄く羨ましかった。私も絵を描きたくて、なんか置いていかれる気持ちになったけど、あなたの絵はどんどん自分だけの絵として確立していき、私はいつも尊敬していました。
覚えてますか?夏の暑い日、私が落ち込んでいた時に、あなたはドライブに連れて行ってくれたよね?今でもあの木漏れ日とあなたの優しさは鮮明に記憶に残っています。
あの油絵、私はあなた達がシュートしているのを見ていたわ。真っ赤な夕陽と薄紫色の雲の中、あのコートでずーっとバスケしていたね。
それと、都内の絵画展を見るためにウチに来て、焼きそば作ったら、ただ普通の焼きそばなのにめっちゃ喜んでくれたね。

最後に丸の内のカフェであなたがお腹にインシュリンの注射を刺した時、こんな所でお腹出してって一緒に笑って…それがお別れだったとは思わなかったよ。

裏表のない人柄のあなたがどれだけの人に愛されていたか、沢山の方のメッセージを読んで良くわかりました。愛おしい英夫、素晴らしい画家!今まで本当にありがとう。

南川智子

2020.05.03.19.25

井田さん、音戸の隣の島、江田島にある築百十年の歴史刻む洋館、海友舎にきてくれたときの写真です。

・・・

はじめてお会いしたのは天仁庵の作品展だったと思います。音戸にあるカフェ、靴を脱いで二階に登り、中庭が臨める和室にそっと飾られた絵画たち。なかでも久留米で描かれた洗濯機の絵が印象的でした。なにげない日常を大切にする眼差し、そこにあるものをギュッと包み込むような優しさがあって。当時のわたしは何か悩んでいたんですよね、今となっては何に悩んでいたんだかサッパリ思い出せないけど。井田さんの作品と出会い、それでいいんだと、モヤモヤが晴れるような爽快感がありました。その経験は今のわたしの活動や暮らしに繋がっているように思います。

・・・

「海友舎の周辺も散策して、描いてみたいんだよね」と、それが叶わず残念でなりません。井田さんだったらどう描くのだろう、新潟にも足を運んでみたいです。

ありがとうございました。

写真=ぐるP忘年会の集合写真(2017/12/30 撮影)

和平 勝明

2020.05.03.16.46

三方舎や絵屋での、姿 表情 会話が
思い浮ぶ。

これからは、この手紙にあるように
列車旅の車中で、
あるいは、
駅弁やミネラルウォーターのボトルを
見た時に、そして村の小さな神社を
見た時に、井田さんを思い浮かべる
のだろう。

ただ、ただ、合掌しています。

真島瑞希

2020.05.03.14.23

井田さんは背も高かったけれど足もすごく大きかった。いろんな地をこの大きな足で歩いたんだろうな。
大きな空を思う存分歩いてスケッチしてるといいな、また井田さんと作品に会える日をたのしみにしています!

小田鮎子

2020.05.03.04.29

井田さん、

のことを思うと、誰にでもいい人すぎる人を疑ぐりがちで、心を開けないわたしは
井田さんにも、井田さんの絵にも、最後までうまく心を開くことができなかったような気がします。

なぜだか今しかない!というタイミングを感じて、大倉館長に後押しして実現した2017年 砂丘館での井田英夫展。
「回顧展だなんて、僕はまだ死んでいないですよ」と言いながら、ふだんは作品を飾ることのない脱衣所に絵を展示することを思いついたり、所蔵者の方から精力的に作品の借用を担ってくれたり、見に来てくれた人を楽しそうに案内していた井田さん。

毎日のように在廊に来る井田さんの持ってくる、タッパーに詰めた大盛りのご飯と牛丼味のふりかけと、みそ汁がわりのカップラーメンとを見て、音戸での食生活を聞いて、心配して、
何かの話のついでに「井田さんの極貧生活」と口走ったら、「こういう生き方に挑戦しているんですよ!」と言っていた井田さん。

あの頃は、すぐその後に病気が見つかるなんて思いもせずに、毎日楽しく過ごしていたことを思い出します。

1回目の手術から半年ぐらい経った頃、当時わたしが住んでいた名古屋に、新潟まで帰る間に途中下車するからと誘ってくれたのに、気持ちの余裕がなくて断ってしまってごめんなさい。

砂丘館で井田さんが写生をしたり、周りのスタッフのスケッチをしている時も、
仕事中にじっと見られているのが嫌で、わたしだけ絵を描いてもらうのを断ってごめんなさい。

四ツ屋ハウスに住んでいた井田さんに、スーパーでばったり会ったのに、話す気持ちになれなくて逃げ帰ったことも、そういえばありました。

こんなわたしなのに、それでも井田さんはいつもあたたかく受け入れてくれていたような気がします。

その優しさが居心地悪くて、
井田さんの前でのわたしはやっぱりいつも厳しい顔をしていたような気がして、振り返ってみると謝ることばかりですね。
いまここで皆さんの投稿を読んで、わたしは井田さんのことも、井田さんの絵も、本当にはちゃんと見れていなかったのじゃないかと疑問に思うばかりです。

それでも、、
たぶん、私が井田さんに本当に言いたかったことは、
病気のあと、井田さんの性格が変貌して、
それまでの私たちが知る、皆に優しいおだやかな井田さんじゃなくなってもいいから、
わがままや文句や暴言を吐いて、横暴で意地悪な井田さんになってしまったとしてもいいから、
回復して長生きして、そんなわがままな井田さんに豹変したとしてもいいから、ずっと絵を描き続けてほしかったよ!!!

これは、わたしの勝手な願いです。

でも、井田さんが選んだことは、優しさを大切にして絵を描き続けることだったから、
その生き方を責めません。

井田さんの身体、おつかれさま。
闘病のなか、よく生き抜いたよね。
そして、どうもありがとう。

こんな私の暴言も、きっと井田さんは笑って
どこかでみてくれていることでしょう。
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新潟滞在中は、絵描きとしてのみならず、
砂丘館で庭掃除や雪かきやイベント・展示のお手伝いや、ついには夜番のスタッフとして助っ人に来てくれた井田さんでした。

たくさんお会いする機会があったはずなのに、なぜかわたしのPCに残っているのは、
2017年の夏に夜通し行った、平原慎太郎さんの24時間ダンスパフォーマンスに深夜〜早朝のお手伝い兼出演者で来てくれた井田さんの、手作りのサングラスをかけたこのインパクトのある一枚です。

岡部安曇

2020.05.02.20.38

ももさんをはじめ、新潟の皆さんから話に聞いていて、すでに知っている気になっていた井田さん。初めて会った井田さんは、大倉さんが、たぶん、悪気なく作った手作りの’看板’を着せられた、サンドイッチマンとなり民謡流しの列にいた。
初対面ながら、井田さん!嫌なら嫌って言っていいんだよ!!と強く思った。
翌日、絵屋で個展開催中だったスペインの画家カルメンと一緒に砂丘館の’普段を見つめる’展を見に行ったら、井田さんが応接室まで丁寧に挨拶に来てくれた。’井田さん、ポロシャツが裏返しですけどわざとですか?’と聞いたら、よくわかったね!という態度で’はい、わざとです’と言った。
井田さんのすさまじい人気者ぶりを知ったのは、ガンが見つかり、音戸から帰省した11月。芸能人よろしく分刻み?!で友人たちの熱い訪問を受け続ける井田さんを、大倉さんや有朋くんと’井田神’、’井田詣’と密かに称するようになった。
井田さんは、自分は普通の人間だよ、と嫌がっていたけれど。

井田さんが逝ってしまって、遺された人たちの途方もない悲しみ、悔しさに触れて、やはり、井田神だーと思う。
井田さん、みんなをこんなに悲しませて、どうしてくれるの?
一方で、私は井田さんの不在に正直どこかほっとしている。井田さんがやっとやっと苦しみから解放されて、自由にあちこち飛び回り、好きな景色を見つけて思う存分絵を描いていると思うと、すごく愉快な気持ちになる。
3.11のとき、久留米の土手で菜の花を描いていた井田さん。
どんなにしんどくても、カツ丼、ざるそば、ラーメン。いつだって食べたいものが明確だった井田さん。
夢の中まで、カラフルでぶっ飛んでて面白かった井田さん。
人からの厚意をありがたく受け取ることができ、素直に誰かに助けを求めることができた井田さん。
絵を介して出会う人たちを心から大切にしていた井田さん。

‘堀川さんたちと来てよ’と何度も言われていたのに、結局自分の用事優先で音戸に会いに行かなかった、、、。渡船があるうちに今度こそ行けるだろうか。

次に会うときには、あちこちで描いたたくさんの絵を見せてほしい。これは、いつ、どこで、どうして描いたのか、いちいち解説してもらいたいけど、きっとそのときは絵屋の個展よろしく、たくさんの’井田詣’の民に囲まれているんだろうな。それをきっと、ほらみろ、やっぱり井田神だ、と思いながら私は遠巻きにその賑わいを眺めるんだろうな。

井田さん、また、どうでもいい、たわいもない話をだらだらしたいです。
そのときまで、自由に動き回って描きまくっていてください。
井田さん、ありがとう!しんどい治療、本当に本当にお疲れ様でした!
信じた生き方を全うした人生、お見事でした!
井田さん、またね!また会おうね!

尾山俊介

2020.05.02.16.59

井田くん
いつも色々な場所から電話や手紙をくれたね。

色々な場所で絵を描いてきたんだなあ。今もきっと、大好きな絵を描いているのかもしれないね。

出会った学生の時、体の大きい井田くんに張り合って、よく腕相撲の勝負を挑んでは負けたな。でもみんなの前だと時々勝たせてくれたよね。

留学時代は、いち早く車を買って、画材や遠くまでスケッチをしに行っていたね。その行動力にはビックリした。そしてみんなを乗せて色々連れてってくれたよね。

卒業してみんながバラバラになっても、集まるきっかけをいつも作ってくれていたのは井田くんだったね。友達も紹介してくれて、お陰で知り合えた人が沢山いるよ。

今回の事でも感じました。
本当に沢山の人から愛されてきたんだなって、そして沢山の人を愛してきたんだなって。

石添政子

2020.05.02.14.33

お会いしたのは最初で最後になった、去年の新潟絵屋での個展でした。

2017年の夏、初めて井田さんの展示会に行き、目の前の現実の日常を描いた柔らかくて優しい作品に感動し、2018年、三方舎さんでの展示会で井田さんの絵を購入を決めて絵屋の井上さんに額装を相談しに行きました。そして、井田さんの作品を毎日眺められる生活が始まることをとても楽しみにしていました。

昨年の7月のある日、遅くに帰宅し、ポストを開けると、井田さんから郵便が届いていて、お手紙と詩集「灯り」が入っていました。

当時、まだお会いしたことのない井田さんからのお手紙と詩集が嬉しくて、次の日の東京出張の早朝の新幹線の中で見ていたことを昨日のように思い出します。

昨年の個展は絶え間なく沢山の方が足を運んでいて、イメージしていた通り、「たくさんの人から愛されてる井田さん」と初めてお会いしました。

以前購入して家に飾ってあった作品にサインをしてくださり、「サインを入れる約束を果たすことができて良かったです。次回の個展でもお会いできるように、治療を頑張ってきます。」

この言葉が最後となりました。

向こうの世界でも、やわからで美しい絵を描いているんだろうと思います。
私が向こうの世界に行った時には、また「岩室温泉の石添さんですか?」と声をかけてください。
その時を楽しみにしています。

ありがとうございました。

佐藤信一

2020.05.02.13.28

井田君、頑張ったね。
なんて一言で済ませたら、「信一さん、それだけですか?」
「なに〜後輩のくせに生意気だぞ!」なんて、
お決まりのやり取り、もう出来ないんですね。
寂しいです。
そっちの世界は、絵のモチーフになる様な美しい景色が広がってるのかな?
早速、キャンバスと向き合ってるのかな?
画家 井田英夫として、最後まで色んな事と闘った生涯だったと思います。
そう簡単に出来る事じゃ無いです。
お見事としか言いようが無いです。

飯塚由美子

2020.05.02.13.06

2017年7月22日に新潟市の砂丘館で行われた、井田英夫さんのギャラリートークの動画をご覧になれます。

https://youtu.be/dga-4N44Now
聞き手は館長で美術評論家の大倉宏さん。

いつも描くことを考えていて、穏やかで面白くて、友達を愛し愛されていた人柄が思い出となりました。
たいへんお疲れ様でした。向こうでもゴッホやセザンヌさん達と存分に描いてください。
ご冥福をお祈りいたします。

居橋典子

2020.05.02.13.05

音戸へ行ってからの井田さんの絵には、驚きを隠せなかったよ。
きっと充実した時間を過ごせているんだろうって、感じられた。
だから、これからがすごく楽しみだったんだよ。どんな絵を描いてくれるのか、すごく楽しみだった。

悔しい。
すごく悔しいよ。
でも、1番悔しいのは井田さんだよね。

その悔しさは、生きている私たちが覚えておくから、ちゃんと成仏して、そっちでまた絵を描いてね。

ヨコタユウコ

2020.05.02.07.50

井田さん

井田さんと出会えて本当によかったです。
ありがとうございました。

はじめてあったのは、音戸の天仁庵さんでの展示会でしたね。
ひょんなことから初対面なのに、2人で飲むことになり「音戸で、新潟と東京の人が飲んでるなんてなんか面白いですねー」と笑いながら話したの覚えていますか?

音戸の四季の写真を送ってくれたり、モノづくりの話をしたりと楽しい時間でした。

たくさんの優しさと元気をいつもありがとうございました。

痛みのない柔らかな世界でゆっくり過ごしくださいね。

次会う時は、約束していた黄色のランプ持っていきますね!

また会う日まで。

Jo Broderick, Dean of College Relations, Montserrat College of Art, Beverly, Massachusetts, USA

2020.05.02.02.04

The Montserrat College of Art Community wishes to express its sympathies to the family of Hideo on his untimely passing.

笠原明

2020.05.01.21.35

井田君との思い出忘れません。

天国で安らかにお休みください。

上田浩子

2020.05.01.17.02

日差しの強い昼間、本町にあった私の仕事場の玄関に大倉さんと並んで立ってた井田さん。
にこにこ笑っている二人の身長差が30センチ以上あって、遠近感がわかんなくなって、私も笑った。

下向くと視界がぼやける。だから上を向いていくのだ。

井田さん、またね。

金子敦子

2020.05.01.12.47

2019年6月。
広島市に行く用事があったので、翌日呉市まで足を伸ばしました。
万全ではないのに、軽トラで私を駅まで迎えに来てくれて。
小雨降る中、海軍基地周辺を2人で歩いて。
せっかくの時間、たわいもない話しか出来なかった自分が、いまだに情けない。
その前は、成り行きで関川村の渡邊邸を2人で見に行ったこともあったね。何気に、2回も2人きりでデートしていたんだね。笑
井田くんといると「優しい象と、せわしないネズミ」コンビみたいだなあ、といつも感じていたよ。
これからもきっと、私はせわしなく生きていくのだろうけど、たまには井田くんの絵を見て、立ち止まろうと思う。
素敵な時間をありがとう!また会いましょう!

はとむら はと

2020.05.01.12.39

井田さんの作品は風が吹いていて
それには香りもついています。
五感がくすぐられる感じがします。
ステキな世界観をありがとうございます。
これからも井田さんの作品は人々の五感をくすぐり続けることと思います。
1人でも多くの人に、井田さんの世界を知っていただきたいと思います。
空の世界でもたくさんの作品を作ってください。

はとむら はと

2020.05.01.12.39

間違って2回送ってしまいました。
2度見てください

田中佳織

2020.05.01.11.39

音戸から少し離れた港町の御手洗(みたらい)で、
スケッチ会に2度ほど参加してくださいました。
ほかの方々は、海やきれいな町並みをスケッチしているのに、
井田さんはひとり
廃校になった校庭の少し高いところに椅子をおいて、
そこから見えるなんの特徴もない(と私が思っていた)一軒の家をスケッチされてました。
このスナップ写真は、井田さんが描き終えたあと、
「ちょっと、丘に登ってくる」と言われて、置きっぱなし(?!)にされていた時に撮ったものです。

とても優しい方でした。
絵に対する姿勢も、とても真面目で優しい目を持った方だと感じていました。
もっともっと、時間をかけて、いろいろお話したかったです。

近藤 達雄

2020.05.01.10.52

2014年春 上野の東京都美術館 バルテュス展にて。バルテュスの娘の春美さん御家族と記念写真。左端は羊画廊の堀君。
井田君は緊張からか、硬直中。

アンティエ ・グメルス

2020.05.01.09.11

井田さんと初めてお会いしたのは、私の新潟絵屋での、ある個展のオープニングパーティーでした。少人数での二次会にさそったら、そこで、素晴らしいFriendshipが始まりました。彼は、「猫が欲しい」とおしゃって、私は、「どうぞ、家に4匹の子猫が生まれたばかりです、残念ながら、私の棚の中の絵本の原画の上に!」と言ったら、井田さんが数日後家にいらっしゃって、(後で彼の才能のお陰で有名になった) 私は命名したローレライ猫美人を養子にして下さいました。
ローレライが、ドイツのライン川の人魚で、その歌も、彫刻も、ドイツでよく知られています。
だれでも、ローレライと、恋におちます、と。
井田さんの個展を、次から次、見ました。素晴らしく素直に、ただ、ただ、描いていました。
なんでも。なにも。ちょうど目の前の事を。そのまま、自分の見たまま。
何て、美しい。我々は、このなまな美しさに、目覚ませるかのように。
たとえば、掃除機や洗濯機きなりの、それなりの美しさに。
感謝に。
井田さんの目線。フィルターがないですね。それは本当に珍しい事ですよ。
井田さんが、はっきりしていました。No Compromise!中途半端はない。
私は自分の個展を準備するたびに、何気なく、守り神みたいに突然あらわれて、助けて下さいました。搬出もそうでした。越後妻有の作品を、一緒に作って下さいました。
どこであらわれても、いつも、みなに、愛されました。
この世で、守り神のような友人でした。今は、なおさら、そうです。
1週間前まで、やり取りがありました。
最後の、井田さんのメッセージは、幸せに眠って、カラフルな夢を見る、猫の絵文字でした。
大好きな井田さん。
ドイツの家に飾ってある、井田さんの素晴らしい山と雲と空の絵です。
毎日見ております。
庭のツーリップをささげました、ロウゾクに火をつけております。
感謝でいっぱいです。
大好きな天使、私達を見守り続けてください!

南川智子

2020.05.01.09.10

井田さん、今朝の瀬戸内江田島、南川ばあちゃんのミカン畑の風景です。井田さんが美味しいと言ってくれたミカンはここで育てているんですよ、むむ。「美味しい」という表現ではなかったかな、何と言っていましたっけ。「味が染み渡った」みたいな表現だったかな。それが嬉しくて、世話をしている父と母に伝えたら喜んでいました。それがきっかけかどうか分からないけど、父が新たにミカンの苗を植えちゃってね(写真の左奥)、「これ誰が面倒みるんね」と母がブーブー言いながらも、今日も畑作業をしています。

そういえば、この畑、南川じいちゃんがはじめたんだよね。じいちゃんも呉で療養後に癌で亡くなったんだよ。今ごろ井田さんと会っていたりしてね、声掛けてやってね。

数田恵美子

2020.05.01.07.32

息子の親友である井田英夫さん
初めて会ったのは10年くらい前かなぁ〜
まだ義母も健在で大きな井田さんにびっくりして。
身体に似合わず、穏やかな静かな物言いの井田さん、何でも「美味しいですねー」と喜んでくれた。一緒に楽しく食事をしたのが思い出せる。

九州に一時住んでた井田さんが、「音戸良いですね〜住みたいな〜」
「じゃあうちの空き家があるから住めば!」と主人が言って、拠点を変えて音戸の絵を描き始めた。
柔らかい色合いの優しい絵、そして力強さもある、井田さんの心の中と同じ。

2年前、「井田さん顔色おかしいよ!黄疸出てるんじゃない!病院行って!」
そして検査入院、手術。

快方に向かってるかの様だったけど癌細胞は井田さんの身体を蝕んでた。

悔しい、哀しい、辛い。
今日、井田さんは旅立つ
今度は痛みのない安らかな世界で思いっきり絵を描いてね!

         令和2年4月30日

大橋保隆

2020.05.01.06.14

2018.2.16
支援展に向けての1枚。

誰かにモデルを頼むと時間が気になってね。
と言っていた井田さん。

見つめる自分と
見つめられる自分を
どう捉えていたのだろうか
と聞いておきたかった。

髙橋幸世

2020.05.01.05.30

初めて会ったのは新潟絵屋の井田さんの個展の時。
二度目に砂丘館で会った時、井田さんは数匹の煮干しの入った小さな袋をくれた。
音戸のいりこ、すごく旨いんですよ、と微笑みながら。
え? 猫の餌みたいーとふざけながら口に入れると
澄んだ深い味がして、本当に美味しかった。
そして、猫がなつくように、私は即座に井田さんに「懐いて」しまった。
この人は、野で摘んだ一輪の花を持って現れる人だと直感したから。

だから私は豪華な花束ではなく、道端で見つけた名も無い一輪の花を彼の旅立ちに贈る。

花と交換にまた一匹のいりこが彼からそっと届くんじゃないかな、と真面目に思ったりしている。

岡田真美

2020.05.01.01.15

井田さん

そちらは
痛みのない世界ですか
花は咲いていますか
海はありますか
軽トラの絵
お手紙
スマホに残ったメッセージ
どれも生涯大切にします
完成した乙カフェも
見ていただきたかったなぁ
でもきっと井田さんは
あたしの所にも遊びに来てくださいますね
またいつか
そちらのアトリエにもお邪魔します
それまで
あたしもこっちで頑張ります
それまでさようなら
同じ時代に巡り会えて良かったです

井田さん
ありがとうございました

※この場を設けてくださった方にお礼申し上げます

中野綾子

2020.05.01.00.13

居候の井田くん

舞踊家・堀川久子さんのご縁で私と友人が住んでいた四ツ屋ハウスという家に2度滞在してたことがあります。

そこでの思い出をこちらに綴ります。

私が子猫を拾ってきた時、大っきい身体でちっちゃい赤ちゃん猫を抱えて、よくお世話してくれたね。

猫が大好きだったね。

雪が積もった朝、起きたらすでに家の前に道ができていた。
聞くと「雪掻き好きだから」と。
お隣は一人暮らしのおじいさんだった。

食パンとグリーンカレー味のラーメンよく食べてて「ラーメン食べる?」と聞かれたけどもらえなかったよ。食べたかったけど。
すっごい節約してそうだもん。

照明さんでも音響さんでもないのに、私たちの作品で両方担ってくれたね。
ステージから見える井田さんのアタフタしてる姿。確実に私たちの方が冷静。
無理です、とか、嫌です、とか聞いたことなかった。

私の誕生日パーティーの時、仮装してねと頼んだら、手持ちの服でバスケット選手に変装して料理運んできてくれたね。
2月でかなり寒いというのに、ノースリーブに短パン。
大事な筆と絵の具使って自分の腕にタトゥーまで描いて。(これがその時の写真。肩になぜか「山」と書いてある)

後に私たちも真似して腕に凶暴な風貌の虎をイメージして井田さんに描いてもらって舞台に立ったけど、あれは完全にかわいい子猫だよ。
どんだけ優しいんだ。。

「ふふふふ」と独特な笑い方をするので私が真似すると、また「ふふふふ」で返ってくるのが楽しかった。

去年お正月、家族で音戸に訪ねに行った時、井田くんが好きだという大きなユーカリの木を見に連れていってくれた。
だいぶ急な坂道を登ってユーカリのある神社へ。
帰り道、落ちている吸い殻を拾いながら坂を下っている。
家の植木に花が咲いたと喜んでいたり。
バスが見えなくなるまでずっ〜と手を振ってくれたり。

井田くんが水をあげた植木も、新潟で拾った子猫も、その笑い声でにやけてた私も

井田くんがいないとみんな寂しいよ。

「ふふふふ」が耳から離れない

髙橋ノリユキ

2020.04.30.23.30

井田さんへ

井田さんと出会えたことに感謝してます。まだ、いろいろお話したい事があったんだけど…

砂丘館で「好きなだけ写真撮っていいよ」と言ってくれた。

写真を見てると、話し声が聞こえてきて切ない。

ご冥福をお祈り致します。

羽ヶ崎 章

2020.04.30.22.29

井田さんに初めて会ったのは三方舎さんでの個展でした。
その時に描いてもらった娘二人の絵は僕にとっては宝物で、今となってはこの絵が井田さんの遺品になってしまいました。
絵のことはよく分からないけれど「井田さんは日常を切り取る天才だな」と勝手に思って絵を見ていました。
井田さんに絵のことを色々質問すると、記憶にも残らないようなごく自然な答えが返ってきて
あまりに自然な答えなので、いつも笑いながら話をしていたのを思い出します。
そんな井田さんとは個展が有るたびに井田さんと井田さんの絵に会いに行くという感覚で、
敢えて初日を外してゆっくりお話を出来る時に個展に行き、井田さんのあの雰囲気を堪能するのが楽しみでした。
砂丘館での個展の時には井田さんの案内付きで全ての絵を見させて頂いたのがとても印象に残っています。
個展以外でも何度か一緒にお酒を飲む機会があり、個展会場以外で井田さんと会うと若干不思議な感覚になりましたが、
井田さんはいつもと全く変わらずで、その時も記憶にも残らないような日常の他愛のない話をずーっと話していた記憶があります。

改めて、井田さんの絵があんなに自然に日常を切り取っていたのは、
「絵を描くことが生きることそのものだった」これにつきるのだろうなと感じます。
そう考えると井田さんの描いた全ての絵が井田さんの生きた証で、井田さんそのもので、とても愛おしく思えます。
井田さんの優しい目で見た景色は本当に優しく美しく、その絵を語る井田さんの言葉も優しく美しくて、
同じように僕たち家族に向けてくれたまなざしも優しくて、今でもまた井田さんと会えると思っている自分がいます。
でもそれが叶わないということを皆さんのこの投稿で確認しています。

これからもずっと井田さんがいるという感覚は消えないと思いますが、
僕もいずれそちらに逝きますので、その時にはまた一緒に呑んでください。
またお会いできるのを楽しみにしています。
長い闘病生活お疲れさまでした。それではまた。

岡本恵美

2020.04.30.21.17

Hideo さんがMASS MoCAに行く時、いつも誘ってくれたのはなぜですか?

「ひとりじゃつまらないから」って。

でも、いつもひとりで色々な所へ出掛けていましたよね?

私が気まぐれに、フラフラとレールから外れそうになる度に、Hideoさんにしかできない方法で、元に戻そうとしてくれていたのですか?

あの遠い遠い美術館までの道のり。どこにでもある街の風景、永遠と続く同じような山道、近所のスーパーマーケットと変わらない店に寄って、特に興味深くはないお昼をそれぞれ買って、さっきの話の続きを繰り返す車の中。

何でもない時間だったはずなのに、嘘みたいに眩しい。そこら中に溢れているようで、二度と見られない景色。Hideoさんの作品の中みたい。

ついに、「井田さん」とお呼びする機会がありませんでした。HideoさんはずっとHideoさんですが、ちょっと憧れがあるので、次お会いした時は大きな背中に向かって「井田さん」と呼ぶので、振り向いてくださいね。

何色のoil pastelが欲しいですか?

久保安夫

2020.04.30.20.37

昨年の4月29日の夜、私は音戸の井田宅に着きました。初めて見る音戸の瀬戸の夜景はとても美しく、また、井田君の絵で何度も見ている為か見慣れた景色でもありました。その夜は途中で買って来た鯖寿司などを食べながら音戸の地酒を御馳走になりました。(井田君はウーロン茶)
そして井田宅のポットン便所と消臭剤の、昔懐かしい香りに包まれ眠りに就きました。翌日の朝食は毎日食べているという納豆、冷奴、野菜の味噌汁とご飯というメニュー。質素ながら健康管理をしっかりとしているなと感じました。
30日の今頃は2人で近くの温泉施設で湯に浸かっていました。
井田宅にお世話になった3日間、家の左右に聳える赤く大きな橋、家の前を行き交う大小の船とその汽笛、天仁庵や井田君の仲間のお店、そして数多くの作品を生み出した井田君のお気に入りの場所。
井田君と過ごした丁度一年前の3日間を思い出しながら手を合わせます。
井田君の記憶と作品はこれからも生き続けますよ。

尾崎美幸

2020.04.30.19.41

快晴の空に旅立った井田さん。
空の上はいかがでしょうか。

いつも、井田さんの画に対する私の拙い感想をゆったりとした様子で聞いて下さる姿が好きでした。
もっと長い時間をかけて井田さんの画を見たかった。
もっとたくさん話が聞きたかった。
井田さんの写真が撮りたかった。

悲しい気持ちや後悔が残ったのですが、今日お葬式に参加された三方舎の今井さんから闘病の様子を伺い、その気持ちが少し溶けました。
緩和ケアよりも画を描く自由を選んだ、最期まで画家であろうとした姿を知り、胸が詰まりました。

画は井田さんそのものであり、人が自分以外のものに自分を移す行為の尊さのようなものを教えられた想いです。
井田さんは画として生き続ける。

井田さん、闘病生活お疲れ様でした。
またいつか。

福田葉子

2020.04.30.19.11

個展に行く度に、本当に沢山の人達に愛されてる人だなぁ。
この人のおかげで、今でも同級生・後輩・先輩・先生・様々な方々と交流が出来ている。
久留米にいた頃、どうやって生活してるのかなと思い聞くと、
「K先生が、お米を送ってくれてる」
…さすが、愛されキャラNo.1‼️

私が、人間的に未熟な時、すかさず本気で注意され、注意された事を気を付けよう!と、今でも心に留めてます。
「福田。」と、呼び捨てで、男同士のような雑な感じが多々ありましたが、今、温かく・優しい井田君しか表に出てこなく、目には見えなくなったけど、きっとみんなの側にずーっといてくれてる…

井田英夫を語れるサイトを立ち上げて下さった絵屋さん・後輩連合(高橋トオル・久住さん)ありがとうございました。
絵屋さん、また散歩がてら、時に井田君と共に遊びに行きまーす。
井田君を想って、ものすごい久しぶりに作品をつくってみよーかな…。 フク

石田伸二

2020.04.30.19.02

井田さんへ。

井田さんが音戸町で過ごし新潟に帰る前日に撮影した動画です。よければご覧ください。 リンクコピー→ https://youtu.be/tZi3_UXeCAU

僕は悲しいと思う感情より「新潟よりボストンより少し遠い地に旅に出た」くらいの想いでいます。とにかく不思議な人だった。これまでにあった人の中では抜群に優しくてのんびり屋で面白くて人や自然を想う気持ちに溢れた人でした。そんな場面を見る度に自分の醜さや不甲斐なさを戒めてくれるような人。なんか疲れた時に会ってコーヒーを飲んでたわいもない話をしたらスッキリ(肝心の井田さんはどんな想いだったか聞いてないけど笑)そして、今は井田さんの分身である絵を毎日コーヒーを飲みながら眺めています。いつかまた一緒に海辺でコーヒーを飲みましょう。それまで大好きな絵でも描いて待っててください。

小林憲明

2020.04.30.18.57

同郷の画家、井田英夫くんが西へ旅立ちました

ホームレスになっても描き続けたいと言っていた井田くん
ひとつ年下で実家が近所だった井田くん
30すぎてから新潟で知り合った井田くん
背が高くて子ども好きだった井田くん
デジカメで撮った写真をすぐチェックして気に入った写真以外は削除してた井田くん
バスケ好きだった井田くん
窓辺に置かれた洗剤やコップが人に見えると言っていた井田くん
個展会場には必ず自画像を飾っていた井田くん
明るい光を求めて広島へ移り住んだ井田くん

いろいろな場所や
いろいろな人々の暮らし
もっともっと描きたかったろうに

ご冥福をお祈りいたします

写真は井田くんが生まれた実家周辺の景色を井田くんが描いた作品、磐越西線越しに見える集落、秋葉山、なにより北陸特有の曇天、冬の厳しさが見事に描かれています
大切な原風景を思い出させてくれて
ありがとう

沖元麻里絵

2020.04.30.18.27

井田さん
今日4/30の11時、音戸大橋の前で、
井田さんが置いて行った天仁庵の絵の前で、お見送りしてきました。
そちらから見えましたか?

こちらのサイトやFacebookで井田さんへの投稿を読んでいると、本当にたくさんの人に愛されているのだなと改めてわかります。
と同時に徐々に実感がわいてきて涙が止まらなくなります。
信じたくないけど本当なんだなと。

音戸で出会ってから、いろんな話をして、いろんな所に行きましたね。
大きな井田さんと並んだ写真は、身長差がありすぎて遠近感が狂ってなんだかおかしいですね。

仲良くしていただいて嬉しかったです。
本当にありがとうございました。
もう会えないのは寂しいけれど、出会えてよかったと心の底から言えます。

またいつか会いましょう!

中嶋悠

2020.04.30.18.03

趣味で自家焙煎をして淹れる僕のコーヒーを、井田さんは「シャモニーを忘れても、オオハタコーヒーは絶対忘れません」なんて行き過ぎた冗談を言いながら、我が家に来てコーヒーを飲んでくれました。
それからも、思い出しては、たまに連絡をくれたり、会ったり、僕のことを気に掛けてくれていました。
もう井田さんに会えないことに、まるで実感を持てません。
数年前から、庇に雪が積もりつららが垂れた新潟らしい雪景色の絵が、我が家に飾っています。それが、我が家に程近い砂丘館の風景と知ったのは、しばらく経ってからのことでした。
外出自粛のため、遠出することが難しい日々が続いているけど、自分の身近には、実は沢山の美しい風景が散りばめられていると、教えてくれているのは、井田さんかもしれません。
これからも、自分の住む街の美しい景色を探し、井田さんの面影を見つけていきます。
井田さん、シャモニーに負けない深煎りのコーヒーを、いつでも飲みにきてください。

松永美恵

2020.04.30.16.37

井田さんへ

井田さんに出会えて嬉しかった。
井田さんも絵も丸い字も大好きです。
ずっとずっとこれからも尊敬と信頼を寄せています。

海津 宏樹

2020.04.30.16.22

展覧会の情報を詳しく教えてくださいましてありがとうございました。井田君の
同期にはじない行動をとっていく所存です。慎んでご冥福をお祈り致します。

宮川 

2020.04.30.15.46

高校卒業したての頃、当時私が監督していた野球チームに入ってくれました。市の代表で下越大会に出場した試合で無死満塁のピンチにリリーフ投手を頼み彼は三者連続三振をやってのけました。あの時は本当にシビれました。その後アメリカ留学の為、チームからは離れましたが帰国時にはチームメイト全員にお土産を持って来てくれたりして人思いの優しい青年でしたね。具合悪いらしいという話は聞いてましたが、まさかこんなに早く旅立つなんて残念で悔しいです。井田君有難うね。貴方から頂いた絵葉書は今でも我が家の玄関に置かして貰ってます。

佐藤真理子

2020.04.30.15.31

去年は井田さんと岡部さんと3人で会う機会がよくあって、絵屋の二階でカレーを作ったり、井田さんの実家の台所を大掃除したりしてとっても楽しかったです。
それで井田さんから次は実家の障子貼りをとのことで、YouTubeで障子貼りのハウツー動画を見ながら待ってたんですけど、訃報が届いてしまいました。
でも井田さんがいる感じは普通に続いてるんですよ。亡くなったのは今世の体だけだと思う。魂は天界に戻ってしばらく休んだらまた次の転生をするっていう説を信じてます。
井田さん、先にゆっくり休んでて。井田さんの絵を見ながら今世の残りの時間を頑張ります。また会おうね!

しんぞう

2020.04.30.13.00

2週間くらい前のこと。ピンポーン、と夜中にインターホンが鳴った。
「こんな時間におかしいから出ないほうがいいよ」と夫は言ったけど、私は一応様子を見に行った。玄関横のスリガラスに黄色い派手なシャツを着た大きな影、「あ、井田さん」とすぐに分かり、ドアを開けた。「こんな時間にどうしたんですか」と尋ねると、「新潟帰ってきてからしんぞうさんに会ってなかったから…」といつもの感じで井田さんは言った。
それでわざわざ来てくれたの、悪いねえ、なんて普段通りしゃべった。コロナのこともあるし、会うのも悪いかなと思ってね…言おうとしたとき、目が覚めた。夜中の1時過ぎ、夢だった。

亡くなってからずっと苦しくて、今も涙が出てしまう。いつも朗らかで、筆まめで、絵の話をよくした。彼と友人になれて嬉しかった。すごい作家なのに飾らなく。

夢の中で顔見せてくれてありがとう。

最後まで、井田さんらしい。

佐藤裕美

2020.04.30.12.31

たくさんの人に愛されている井田さん。
音戸には二度遊びに行かせてもらった。
井田さんに音戸と江田島を案内してもらったとき、立ち寄った先々で井田さんのお友達に遭遇した。
観光名所の洋館で、港の待合室で、スーパーでは買ったばかりのお刺身をおすそ分けしてもらい、ガソリンスタンドでは、新潟から来たのと言われ…。井田さんはその度に、会った人たちとの繋がりを丁寧に説明してくれて、新潟でも音戸でもたくさんの人たちに囲まれているんだなと実感した。
絵を描くことが生きることだった井田さんだから、孤独に絵を描く以外のわずかな時間での仲間との繋がりを、とても大切に思っていたのかな。

音戸の家にも新津にも目に入るところにたくさんの絵が掛けてあった。私から見ればもう完成しているように思えたけれど、「ここからどう描いていこうかと考えながら毎日眺めているんですよねー」と井田さん。
「へぇーー(すごすぎるでしょ…!)」と私。井田さんの生き方は絶対真似できないけれど、どこか憧れもあった。

「井田さんの絵を毎日眺めていますよ」とLINEしたら「それが一番うれしいです!」と返事がきた。文面からだけど、本当にそう思ってくれていることが伝わってきた。だからこれからもそうするね。

たくさんの絵を描いてくれてありがとう。井田さんに会えなくなったことを慰めるように、井田さんの絵が寄り添ってくれています。
そして残された絵にこれから出会える場がきっと生まれるから、そのための応援をしていきます。

・お別れに行けないこのようなときに、思いを寄せられるサイトを爆速で作ってくれて本当にありがとうございます。

田野 学

2020.04.30.12.01

2018年の11月僕は井田さんと電話で話をしました。
僕の記憶が正しければ、井田さんは病室から見える景色を「藤島武二の絵みたいだ」と言っていたことを覚えています。

鉛色の空が広がる新潟にいた僕は夕焼けにオレンジ色に染まる瀬戸内の海を思い浮かべて井田さんのことが羨ましかったです。

井田さんは人生劇場から早期退場しましたが、僕も含めてみんな遅かれ早かれこの世を退場する日が来ます。
別れは悲しいけどこの辛さが人生です。
その分また出会いの喜びもあるわけで、井田さんとの出会いは私にとってそれはそれは喜びでした。
井田さん、さようなら。

村井勇

2020.04.30.12.01

井田さん
14年前、地元新聞社発行のフリーペーパー「assh」の表紙に出てもらいましたね。
撮影場所は新潟の海に近い井田さんのアパート。
なぜか愛猫ローレライを肩に乗せている姿を撮ったように記憶していましたが、
実際には二人(?)仲良く並んでの写真でした。
息子がまだ小さい頃、絵屋で井田さんに肩車をしてもらったことがあります。
ひょいと担ぎ上げられた息子は、
その小さな手を楽々と天井につけることができ大喜びでした。
残念ながら息子にはその時の記憶は無いそうですが、
私はいまでも憶えています。
絵屋での初個展でお目にかかって以来、
井田さんに会うたび、
そしてその作品に接するたびに、
私もひょいと担ぎ上げてもらって大きな優しさに触れさせてもらっていたような気がします。
ほんとうにありがとう。
どうぞ安らかにお休みください。
さようなら。

安藤喜治

2020.04.30.11.54

井田さん 心よりご冥福をお祈りいたします。

昨年、7月28日に初めてお会いし、いろいろな楽しいお話をさせていただきました。
絵屋さんを出るときかけていただいた
「また、楽しいバスケの話をしましょうね。」って、
耳に残っています。残念です。

池田早季恵

2020.04.30.11.45

昨年末に井田さんから届いたお葉書には「ラジオを聞き始めたら面白い」と書いてありました。
お勧めしたラジオ番組を聞いてくれていたことが、すごく嬉しくて、それからは「井田さんも聞いてるかな」と思いながら、ラジオを聞いてました。
これからも、ラジオを聞いたら井田さんを思います。

内藤雅子

2020.04.30.11.34

音戸の景色を呉の夕陽を見せてくれて、ありがとうございました。
貴重な病院着姿を見れて、ラッキーですね、なんて話。夕ご飯の時間にお邪魔しちゃって、ごめんなさいでした。ご飯食べてて見てないでしょう。あの日の夕焼けは、とても綺麗だったんですよ。

また会いましょう。ちょっと早く先に行き過ぎだけど。みんないつかはそっちへ行きます。思い出話しましょうね。
それまで、またね。

豊島淳子

2020.04.30.11.18

夏の雲の絵は活躍していますか?
井田さんから最初にもらった、メッセージにそうあった。
青空は元気です。 
と、送った。

絵というものを、画家さんから買って、絵屋に額装してもらった、はじめての絵だった。

もうひとつ、井田さんの絵がある。
ちいさな、絵だけれど、ずっと向こうに景色がつながっているようで、遠くをずっと見られるようで、気に入っている。

いまの店の壁にかけた時、絵のちいさな額のむこうに、絵の風景がそのままつながっているような、気持ちになった。

実家にも、井田さんの絵がある。
あたたかくて優しい空の色と、やわらかくて機嫌の良さそうな緑。母が迎えたもの。
絵屋にコツコツずっと通う母の方が、井田さんの絵はたくさん観ているかもしれない。実家に、井田さんの絵があるというのは、なかなか素敵なことだ。

店で仕事をしていて、カウンターから目を上げると、ふたつの、井田さんの絵が見える。

絵のむこう側に、井田さんが見ていた、井田さんしか見ることのできない、色がたくさんある景色がある。井田さんがじっと、繰り返し、繰り返し見て、描いた色と線。
井田さんの絵を通して、その景色を、じっと見る。ちかくに、深呼吸できる空がある。井田さん、またね。

坂本友里

2020.04.30.11.02

井田さん。
しんどい闘病生活本当にお疲れさまでした。
私は数回しかお会いしたことないけど母がとても仲良くしてもらっていて、母から井田さんのお話をよく聞いていたのでお人柄の良さはよく知っています。初めてお会いしたときもとても親しみやすいオーラで、前々からお友達だったっけ?と思うくらいでした。もっともっと色んなお話がしたかった。もっともっと力になれることはなかったのか、、とこういうことを考えてるとキリがありません。
戸惑いながらも生後4ヶ月の娘を高い高いしてくれた優しい笑顔、新潟に帰られる前に一緒に見た桜を忘れません。
ローレライちゃんや私の実家にいる猫についてメッセージのやりとりをさせてもらったこともほっこりいい思い出です。

一度会うと「また会いたいな」と思わせる素敵なパワーを持つ井田さん。
また会いたいです。
とても寂しいけど、今はやっと痛みから解放されたと思うとホッとしています。

とりあえずはゆっくり休んでください。
心よりご冥福をお祈りいたします。

井田さんありがとうございました。

小野香澄

2020.04.30.10.46

井田さん、ありがとうございました。
めっちゃしんどかったはずですよね。体。
お疲れさまでした。
この写真、やっぱり、良い写真ですよね。
退院後の姿をいろんな人に見せるのに使いたい、と言ってくださって。
嬉しかったなあ。
やっぱり、ここにまだいらっしゃるような気がしてしまいます。
音戸にまた来てください。
また、写真、お送りしますね。
 
小野

佐藤 方美

2020.04.30.10.44

井田さん、こんな写真しかなくてごめんなさい。
去年の夏に、加茂で一緒にところてんを食べたね。少し散歩もして。
その後見附まで行って、美術館でお茶をして。

その間私はたくさんの質問をして、
井田さんはゆっくり、一つひとつそれに答えてくれた。
「あれは入院中に描いたんだよ。小さいサイズの絵はね、こうでね。これはこういう薬なんだよ。」

井田さんとは疎遠になっていた時期もあったけれど、
それでも呉の景色をたくさん送ってくれ、
体調が悪いのに私のたわいもない話に返事をくれたことに感謝しています。

外の景色を見ても台所のスプレーボトルを見ても、井田さんはそこにいるのかなぁと思います。
いろんな景色の中に井田さんはいるんだなと思います。

亡くなられてとても悲しいです。
でも次会ったら、
またたくさん質問してしまうかも。

井田さんありがとう。
本当にありがとうございました。

伊藤純一

2020.04.30.10.37

本当に絵を描く事が好きで好きで、絵を描く事が人生、と感じさせる唯一の人でした。
作品の裏面であろうとチラシの裏面であろうと描きたい衝動を抑えきれず描いてきた。
もっともっと描きたかったでしょうね。もっともっと描いてもらいたかった。残念です。
井田君の作品に向かい合うと、井田君に会っている時と同じようにいつも穏やかさ優しさを感じます。
ほんとうにありがとう。
井田君安らかにお休みください。ご冥福をお祈りします。

中村清子

2020.04.30.09.55

井田さんありがとう。

ホントにほんとに
ありがとう

今こう書きながらも
涙がとまりません

小玉 環

2020.04.30.09.47

8歳の娘が
「36色入りの色鉛筆をサンタさんからもらったんだけど、どれから使ったらいいのか分からない。」
と言うと。
背のうんと高い井田さんは、優しい笑顔で
「絵をはじめに書く色はね、好きな色からでいいんだよ。」
と言って、娘の色鉛筆を使って近くにあった秤の絵をすらすらと書いてくれました。
(写真はその時のもの。2016年5月17日)

私は音戸町でカフェをしているご縁で井田さんと出会いました。
ひとりでふらっと来て、ホットサンドを注文されていました。
新潟に帰る前などに、立ち寄って頂いたり
お友達の川手さんやリトさんと一緒に来て頂き、いつも楽しそうでした。
病気になってからも、ときどきメッセージを頂いていました。
その言葉すべてに井田さんの優しさがあふれていました。

井田さん、いつも応援して下さりありがとうございました。
また、飲みたくなるような美味しいコーヒーを作るからね。

中村文美

2020.04.30.09.46

井田さんが見つめる先の日常の風景や日用品や、会う人へのまなざしはいつも優しさであふれていました。
そよ風のような心地よい時間をわけてくれる人でした。
15年前程、エムスタジオでお会いしたのが初めてだったかと思います。
いつも心温まるていねいなお手紙や葉書をありがとう。
うーぱーるーぱーで粘土をこねるのをお手伝いしてくれてありがとう。
私のとりとめのない鳥の話を、嫌な顔一つせず聞いてくれてありがとう。
天国ではお気に入りの場所を見つけてのんびりしてくださいね。

齋藤奈保美

2020.04.30.09.12

2年前に新潟絵屋さんで開催されていた支援展で、井田さんの絵を初めて見ました。
娘と2人で、ゆっくり、じっくり見させていただきました。娘が真っ先に選んだポストカード、最近模様替えをして、娘が小さい頃に落書きをした壁に飾りました。見る度に癒されています。
ほんの少ししかカンパ出来なかったのに、とても素敵なお葉書をいただき、ありがとうございました。井田さんにお会いしたかったです。

anneau山本馨

2020.04.30.08.56

井田さん、今どこで何してるの?

私はまだ信じられずにいます。
またお店開けてたらふらっと
「こんにちわ」って遊びに来てくれそうだもん。

息子ともたくさん遊んでくれました。
井田さんの事は大好きだったみたいで
遊びにきてくれると膝にちょこんっと自分から座ってました。

井田さんが遊びにくると嬉しそうにニコッとする息子の顔が忘れられません。

お店のドアの方見て息子が笑ってたら井田さんが来たんだなと思う事にするね。
いつでも遊びにきてね。
おやつと珈琲いれとくよ。

またいつか会おうね。

三ッ井 伸一

2020.04.30.05.58

画家 井田英夫さんが、4月27日に永眠されました。ご冥福を御祈り致します。

実は、先週末、井田さんの専門学校時代の指導教師であるKさんが画廊を訪ねて来られ、井田さんの話になりました。その現況を聞き、絶句してしまいました。覚悟はしていましたが、さすがにこんなに早く訃報を聞くとは言葉がありません。

ここからは敢えて井田君と呼ばせてもらいます。井田君との出会いは、2002年新潟絵屋での初個展の時。アメリカ留学時に描いた作品には、新潟にはない光が溢れていました。その場での話だったか、後で話したことか、記憶が定かではありませんが、『僕は現場主義で、画材を担いで外へ行き、その場の風や光を肌で感じながら描いています』と語ってくれたことがありました。井田君は、生涯それを貫き通しました。晩年は、病床から眺める小さな世界になってしまい、さぞ悔しかったことでしょう。

井田君は、新潟には落ち着かず、自分が描きたい風景や光を追い求めて、九州や四国など居を定めて描き続けました。そんなこともあり、しばらく交流がなかった時期もありました。再会したのは2011年10月、Kさんの個展の時でした。恩師であるKさんの作品搬入を手伝ってくれました。

掲載した作品は『音戸 夜』(紙に木炭、コンテ
180×150mm 2015年)で、井田君が初めて音戸をテーマに開催した新潟絵屋での2016年の個展で買い求めたものです。額をあけてびっくり、裏には描き損じ?のパステル画が隠れていました。

井田君に会ったのは、昨年の絵屋での個展が最後でした。そして、今年2月13日にSNSでやり取りした次の言葉が最後となりました。『三ッ井さん、こんにちは。お元気ですか?こちらは癌が進行していますが、諦めずにまだまだ頑張りますよ。誰かに乗せてもらって、また画廊にお邪魔したいです。』

ぼくとつで笑顔が素敵だった井田君。2015年10月、Kさんの個展の最終日の夕方、これから音戸に帰りますと、大きな荷物を抱えて挨拶に来てくれた井田君。帰り際に見た君の大きな背中は忘れません。ながらく付き合ってくれて本当にありがとうございました。
安らかにお眠り下さい。

(facebookより転載)

タナカヨシユキ

2020.04.30.02.30

井田さんときちんと話したことはない。
2018年4月5日にFacebookを通じて以下のようなメッセージをいただいた。
「田中さん こんばんはー
滞在していた呉で養生中の井田英夫です。
珈琲豆やカップの提供をしていただいたと、大橋さんから伺いました。まだまど新潟に戻る体力がありませんが、通院と養生をしっかりして、元気になったら、お店にお邪魔しますね。今回は、ありがとうございます!」
三方舎さんで治療費にあてるべく個展が開催されるタイミングでお客さんにコーヒーを淹れたいと鎚起銅器の大橋さんに依頼されたため、せめてぼくの提供できるものは提供して、少しでも治療費にあててほしいと申し出たことがそのきっかけだった。
三方舎にも新潟絵屋にも関わりを持たせていただいていたのに、井田さんとの関わりがなかったことは今考えればそれなりに意外なことのように思えた。
2019年7月に新潟絵屋で開催された彼の個展には足を運んだ。療養していた呉の風景がカラフルな彩りで描かれていた。滞在している間にもまるで遅れてしまった退院祝いかのように絵を買い求める人がたくさんおられた。あらためてその人気(というとしっくりこない気もするが)を感じていた。
彼の絵の魅力について考えたことがあった。
あのきわめて日常的な、いやあまりにも日常的すぎる風景を、とりわけ写実的でもなく、抽象化するわけでもなく、(いい意味で)ふつうに描ききる率直さが印象的だった。
たとえばお風呂場の一角の洗剤などが雑然とならぶ日常性をあるがまま描く(写し/移し取るように)絵にある種の異日常を見ることができた。
ふつうをふつうに描くことで辿り着くことができるふつうじゃなさという迂回したルートを取ることができる力強さのようなものを感じた。
とはいえ、ぼくは彼のことをよく知らない。
彼のことをよく知る人はきっとそんなことを考えてはいないような気がしていた。
では何を気にしていたのだろうか。
きっと彼の姿勢や佇まいや振る舞いや表情というような、彼を感じ/思い出させてくれるフックとしての「絵」を買い求めていたのではないか(とぼくは推測した)。
そんなふうに、それだけの人が彼をそういう存在にした(だから絵を手元に置きたくなった)のだ、という仕方で、ぼくは彼を少しだけ知った気になったのかもしれない。
だからぼくは彼を必要とした人たちによってこれから彼のことをきっと知っていくことになるのだろう。
もしかしたらそれは井田さんと直接話すよりも彼のことを知ることになるのかもしれない(とさえ思う)。
終わりではない。それがはじまりである。というような凡庸な締めくくりはしたくはない。
ただ生とは、どれだけの人から記憶されつづけ、どれだけの人に影響を与えるか、だとしたら、ぼくなんかより間違いなく井田さんは生きつづけるんだろうな、と思っている。

太田 広美

2020.04.30.01.57

井田さんに初めて会ったのは、彼がまだ20代の頃でした。
共通の知人を通して井田さんを知り、ライターである私はどうしても彼のことを記事にしたいと取材を申し込んだのです。

当時井田さんは、新潟市の海のそばにあるアパートで暮らしていました。
記事に使う写真は、アパートのそばにある公園で撮影。
大きな展望台の前に立ってもらい、下から見上げるアングルで井田さんと展望台の大きさを強調するように撮影したことを覚えています。

お話を聞いている中、アメリカで撮った写真をたくさん見せてもらった時、その素晴らしさに驚きました。
井田さんは何気なく撮ったと言うのだけれど、構図が素晴らしかったのです。
本当に何気なく撮ったのなら、この人は天才だと大げさじゃなく感じました。

その後10年ほどの時が過ぎ、ひょんなことからまた繋がることができた時。
当時、仕事のこと以外で迷惑をかけたことがあり心苦しかった私がお詫びをしたら
「あの頃はあの頃で。今またこうして繋がれたことがうれしいですよ」と言ってくれました。
お会いした数は少ないけれど、忘れられない温かくて大きな人です。

4月30日、新潟は晴天の予報です。
青空に向かい、手を合わせます。
どうか安らかに。

笹井孝太

2020.04.30.01.10

ある冬の寒さが厳しい日に彼は広島の宮島にある僕の絵画スタジオを訪ねて来てくれました。彼は非常に長身で、うちのスタジオは古民家で天井が低いので、くぐるように入ってこられ、小さな展示空間で絵をみながら絵の事について話したのが最初でした。彼の絵は広島に住んでいる画家のなかで、特に良いなと思える画家のひとりで、彼から影響を受けた事も沢山ありました。体が大きいのに繊細な彼の絵は、その繊細さ、臆病さを否定せずに淡々と絵にしていくスタイルで彼の優しさが滲みでていました。彼の死は自分にとってはとても深く考えさせられる出来事です。彼の優しいテクスチャーをゆっくり絵の中で考えてみようと思っています。画像は最期に彼の音戸のアトリエにお会いしに行った時に壁に貼ってあった空と山の絵です。LINEで言ったとおり今年は新潟に行くつもりでいますよ。

久住 達朗

2020.04.30.00.54

初めてお会いしたのは井田さんが留学中のボストンでした。
日本に帰国後、声をかけていただき、新津の商店街のシャッターペイントのお手伝いをさせてもらったのは井田さんとの一番の思い出です。
今でもその商店街を通ると、あの時のことを強烈に思い出します。自分の地元や縁のある土地ではない場所にそんな想いを抱ける場所を作ってくれた井田さんにただ感謝しかありません。
自分から人を誘うのが苦手な私にとって、その後もちょくちょく連絡をくれて会いに来てくれたこと、とても嬉しかったです。
本当にありがとうございました。

野本貴章

2020.04.30.00.28

井田君… ただただ ありがとう!
もっともっと絵のことやいろんなことを話したかった!
心から何でも打ち明けて話せる大親友であり、時には励ましあったり、時には意見を出しあったり…
もう何もかもが特別な存在でした。
25年前の春、専門学校で出会ってから今日まで、井田君との思い出の全てが宝物です。
自分は井田君という素晴らしい友達がいたことを誇りに思っています。
これからも、ずっと。

いつの日か、また会えたら、一緒に絵を描こう!

井田君、おつかれさま。
今までありがとうございました。

会田法行

2020.04.29.23.36

昨年の個展にて。僕はこの時が初対面でしたが、いつも妻の蓮池ももから井田さんのお話をうかがってました。

井田さんに「同僚のような存在」と言われた時の妻の嬉しそうな顔を今でも覚えてます。

素敵な言葉をありがとうございました。

安らかに。

久保有朋

2020.04.29.23.30

井田さんに初めてお会いしたのは、今から15~20年ほど前、父親に連れられて行った展覧会でした。その時の小さな私の認識は「父親のバスケ仲間のおおきな人」でした。
それから15年ほど経った2016年の夏、遠い記憶としてぼんやりと残る井田さんの面影を想像しながら新潟絵屋を訪れると、そこには穏やかにはにかみながら、「久しぶりですね」と声をかけて下さる想像通りの大きな井田さんが居りました。

先月中頃、ご自身がとても辛い状態であるにも関わらず、私の就職を祝う連絡を下さり、「有朋さんがいるときに、おじゃましなくては」と励みになる言葉を下さった井田さん。
おかげで、腰を屈めて受付から覗き込むように私を探し、はにかみ笑いを向けてくれる井田さんの姿、「有朋さん」と呼ぶ低く穏やかな声を、これから仕事中に何度も想像してしまいそうです。

私にとっての井田さんの最期の言葉は、私の今後の抱負を聞いてかけて下さった「また新潟が日本一になるとイイですね!」でした。
この言葉は、これからもずっと、私の背中を押し続けてくれると思います。
いつの日か、良き報告をしに天国の井田家に伺えればと思います。

いくつかの言葉や記憶とともに、井田さんが、新潟の四ッ屋町に住んでいた頃の部屋の一処を描いたという、優しさと温かさの詰まった画も、私の生涯の宝物です。本当に、ありがとうございました。

井田さんのご冥福を心より、切に願います。

佐々木しず

2020.04.29.23.22

井田さんへ
音戸で制作する作家同士として、色んな話をしましたね。
井田さんのゆっくりとした話し方、ずっと忘れません。

井田さんのような誰にでも優しくて人を恨まない心の綺麗な人を、私は他に知りません。
悔しくて、悲しくて、どうしようもないけど、井田さんに出逢えて良かったです。

トトも何故か井田さんにはなついていましたね。井田さんの大きな膝の上が大好きでした。
寂しいよ。

これからはどうか天国から見守って下さいね。

ご冥福を心からお祈りします。

Toshie

2020.04.29.23.17

井田さん、私にも優しさと穏やかさを与えてくれて、有難うございました。
私は結局、井田さんに数回しか会えなかったのですが、離れていてもその存在がお守りのように感じられました。
遠い親戚でしかない私のことを、何かと気にかけてくれましたよね。
親戚づきあいがほとんどない私にとって、その優しさがとてもうれしかったのです。

今はまだ、悲しみの中にいます。
たくさん泣いたら前を向いて、私も私の生をまっとうしますね。
また会う時にはお寿司を山ほど持っていくから、小口の絵を描いて待っていてくださいね。

荻野 武宣

2020.04.29.22.47

もう悔しくて、悲しすぎます。
能代川沿い一緒に行く約束したのに。。

井田との思い出を胸に大事に生きていきます!

本当にお疲れ様ね、ゆっくり休んでね。

心からご冥福をお祈り致します。

匿名

2020.04.29.22.05

木村明宏

2020.04.29.22.01

井田くん、一緒に応援しとる広島ドラゴンフライズが昇格しB1リーグに!
シーズン始まったら俺が試合会場へ連れて行くからな。
楽しい時間をありがとう。
お疲れ様でした。ゆっくりして下さい。

木間淳

2020.04.29.21.34

去年、久しぶりにお会いした時の写真です。
変わらず優しい井田さんでした。
握手して温かくて大きな手 忘れません。
ありがとうございました。

木間淳

2020.04.29.21.19

アメリカに行く前に我が家の絵を描いてくださいました。
我が家の玄関に20年くらい飾ってあります。
宝物です!

小沼智恵利

2020.04.29.21.15

井田さん
ギャラリーみつけの個展の時は楽しかったなぁ。毎日お話しましたね。
長男大学生になったよ。次男は高校球児だよ。絵の話はしなかったね。
井田さん、あなたと取り止めもない優しい話がまたしたいです。

どうぞどうぞ安らかに

大倉 宏

2020.04.29.20.09

井田さんが逝った夕刻、寺尾から新潟島経由で新津に向かった。
海岸沿いの道に出ると、思いがけほど見事なオレンジ色の夕日が浜の向こうに沈もうとしていた。急いでいたのに、呼びとめられた。車を寄せ写真を撮った。
…その前日のこと、井田さんの容態の悪化を知らせた人に〈井田さんの好きな色はなんでしょうか?〉とメールで聞かれ〈わからないなー、オレンジかも…青や緑のきれいな絵もあるし…〉と応えていた。音戸で描いた自画像や素晴らしい夜の絵が夕暮れの光に重なった。
砂丘を越えて、関屋分水の河口にさしかかると日は沈み、波打つ海面が何とも言えない美しい、まるで井田さんの絵のような青緑に染まっていた。
たくさんのたくさんの宝石のような色をこの世に残して、井田さんは去(い)ってしまった。
巨きな天使。
私たちの時代に降りてきてくれて、ありがとう。

数田 祐一

2020.04.29.19.42

【井田英夫によせて】

勝手口の扉を開けて、「数田くん、おはよう。良い天気だね。」と挨拶を交わす。
大きな体で根の優しい彼は、小さなじょうろで草木に水をやりながら、僕との何気ない会話を楽しんでいた。
そんな日常がもう二度と来ないと思うと本当に寂しい。

14年前、僕はボストンで井田英夫と出会った。
画家という職業の人と会うのは初めてだった。
丁度、ボストンの美術大学を卒業して新潟に戻り明るい絵が描けなく悩んで再度ボストンに来た時期だった。
絵と向きあう頑なな彼の姿。
音戸での5年という歳月の中で、何よりも絵を優先し、生活の中心に絵を置くライフスタイルは彼の信念を感じさせた。

晩年、彼は音戸の風景を沢山描いてくれた。
「家の外に出ると描きたいものが沢山あるんだよね。それに一度も音戸では嫌な思いをしたことが無いよ。」と話してくれたのを思い出す。
親友がなぜか音戸を大好きになってくれた。
彼の目線で描かれる絵を見ると、ここは素敵なところだなと再確認する。
地元の人にとっては当たり前の風景だが、彼は瀬戸内の海や行き交う船を興味津々に眺めていた。

新潟で7月に個展を行った際には、音戸フィーバーが会場で起きたと聞いた。
井田さんが描いた音戸の絵が好評だった。
それに天仁庵のお土産物のパッケージデザインに絵を提供してくれ、その商品を個展で販売する事にもなった。
思いもよらないことが次々とおきた。

井田さんは人を大切にする人だった。
音戸の生活の中で、沢山の友人が出来た。
ストイックな貧乏生活を極めようとする彼の姿を見て、月一回たらふく食べさせようと井田さんの家に仲間が集まって飲み会をするようになった。
それが、月一会の始まりだった。
そこで交わされる語らいの場は、みんなの心地良い居場所になっていた。

4月上旬、新潟に戻る直前に最後の月一会をやることになった。
体はとてもしんどかったと思う。
でも彼は瀬戸内の魚を頬張り、「美味しいね。楽しいね。またやりたいね。」と言っていた。

そして新潟に戻る、お別れの日。
沢山の友人が彼を見送るために集った。
やっぱり涙をこらえきる事が出来なかった。
本当は笑顔でまた会おうと、元気な姿の彼を見送りたかった。でも現実は違った。
彼は末期癌で痩せ細り痛みがある体。また会えるか分からない、そんな事を思わせる状態だった。
いつものように「数田くん、また。色々とありがとう。」と言う彼に「井田さん、ありがとう。また会おうね。」と、ぎゅっとハグをした。痩せたけどやっぱり、大きな体だった。涙が止まらなかった。

感動的な別れのあと、ふと家の鍵を返して貰うのを忘れたのに気付き電話をかけた。
音戸の渡し船で対岸から鍵を返しに来ると言う。
井田さんは最後に渡船に揺られ、ユーモアたっぷりの感動を覆す別れの場を作ってくれた。
本当に彼らしい演出だった。

僕は井田さんから人生における最高のプレゼントを貰った。
それは彼に接した事がある人なら皆知っていると思う。
『人としての穏やかで優しい心』

彼が音戸に最後まで留まったのは、天仁庵の絵を完成させるためだった。
納得いくまで描く事は出来なかったけれど、最後の力を振り絞って描けるところまで描いてくれた。最大の感謝の気持ちを絵に込めて。

信じ難いが、もうこの世に彼はいない。
今ここにあるのは彼の残した作品と思い出だけだ。

家族のように過ごした最後の5年間。
とても素敵な楽しい時間でした。
本当に、本当にありがとうございました。
どうぞ安らかにお眠り下さい。
またきっと天国で会いましょう。

2020年4月29日

広島県呉市音戸町
天仁庵
数田祐一

写真:石田伸二

(Facebookより転載)

川手 和美

2020.04.29.19.37

画家 井田英夫

親愛なる友 井田英夫氏が画家人生を終えました。
大きな体から溢れる優しさは沢山の人から愛されました。

はじめての出会いは5年前 呉市音戸町にある天仁庵の2階であった井田氏の個展でした。

1階に見た事ないような大きな靴がありました。
2階に上がると大きな巨人が立っていました。
絵を見ると体から想像できない やわらかくて優しくて暖かな日常がそこにありました。
なぜか心安らぐ空間が広がっていました。

それから音戸に住み絵を描いていました。
いっしょに色んな美術館 ギャラリー デッサン会 スケッチ会行きました。

美術館ではひとつひとつの作品をゆっくり時間をかけて目に焼き付けるように観る彼の姿が印象的で本当に絵が好きなんだなと感じました。
彼の作品をしっかり観る姿勢が絵を上達させてる要因なのだと思います。

2年前に癌が見つかり手術し抗がん剤治療がはじまり痛みと闘いながら絵を描いていました。

今年3月肝臓への転移が見つかり抗がん剤治療を中止し緩和ケアのため新潟に帰ることになりました。
4月2日に退院して1週間でしんどい体調の中 音戸のアトリエの荷物を皆んなの力を借りてをまとめ7日に新潟に帰りました。
音戸の渡船から手を振る姿が最後でした。

彼の作品は喰うための絵ではなく喰えなくても描く絵なのです。
近くにある日常を優しく柔らかく暖かくとらえ綺麗な色彩で表現する彼ならではの作品たち。

井田氏は亡くなりましたが彼の視線からとらえた作品たちは永遠に生きる彼自身なのです。

親愛なる井田英夫氏 ありがとう また会おう。
(Facebookより転載)

田坂 寛美

2020.04.29.19.35

『日常にある何気ないものを描きたい。』

5年前井田さんの絵を初めて拝見したとき
素朴で純粋で優しさに溢れていて
それでいて力強い
その感動を今も忘れません。

今になって井田さんの絵から何が大事なのか問いかけがはっきり聞こえてくる気がします。

病気療養のため新潟に帰られる数日前
引っ越しの片付けも目処がついたので帰ろうとしたとき
『1ヶ所だけ行きたいとこがあります』
井田さんがいうので向かうと
そこは音戸にある勾配のきつい階段の上の神社でした。
お礼に行きたかったと言われてましたが
あの階段を上がるのは癌細胞に冒された身体には相当きつかったと思います。
そんな律儀な井田さん。

また井田さんへの手紙の量は人望の厚さをうかがい知れます。
どんなに小さな紙切れでもどなたかが井田さんにあてて書かれたものだったらとってありそれらはとても大切なものだと言われてました。

温厚な井田さんの怒った顔をみたことがありません。
でもただ一度だけ一瞬
入院先に会いに行ったとき
糖尿病も患ってるので毎回食事にはかなり気を付けられていたのだけど
抗癌剤治療の効き目がないと解り
『もう気にせず何でも食べる』
とポツリと言った時の顔。
病が悔しかったのだと思います。
当たり前です!
悔しいですとも!

4月7日新潟に帰られてご自宅におられたのは10日ほど。
その後入院。

11時間かけて呉から新潟に帰る体力はギリギリだったと思いますが故郷に帰れたことは奇跡に感じます。

昨日お姉さまがお電話で
『隣に寝てるから会話が聞こえてるかもね』
と言われたので思わず
『井田さーん!』
と呼んでみました。

『聞こえてますよ』

含み笑いのいつもの井田さんの声。

聞こえてきそうでした。

4月27日
午後1時17分
井田英夫さん永眠されました。

(Facebookより転載)

高橋トオル

2020.04.29.19.32

先輩の井田さんからはずっと創作について教わってきたように思います。

それは絵とはある種の正直さであり、一枚の絵と向き合うとはこの世の正直さを受け取る事だという学び。それが僕の手元には残っています。それは恐ろしいことでもあり、だからこそ井田さんはあぁいった風貌でどこまでも優しげだったのだと思います。この手元の正直さは後悔もそのまま照らし、それを井田さんがどう言うのか、その影をずっと見つめていくことになります。今は、創作のこと、学びのことなど大したことではなかったのかもしれないとも思います。もっとずっと馬鹿話をしたかったです。寂しくなります。井田さん、今まで本当にありがとうございました。

大橋保隆

2020.04.29.19.00

8年前に三方舎さんで出会った井田さん。
カップラーメンを片手に、縁側で食べようと思っていた。と話していた井田さん。
相変わらず、どこかからぬっと出て来そうな井田さん。
最後まで、絵を描きたいと言っていた井田さん。
同級生の井田さん。
いつもお茶目に接してくれた井田さん。
絵描きとして、その存在の大きさを改めて感じています。

今井正人

2020.04.29.18.25

三方舎での一回目の個展で採用されなかったDM用写真、初めて公開いたします。
(今井自宅にて高橋トオル撮影2012.6)

井田くん
辛く苦しいのにもう一度絵を描きたいと最後の最後まで頑張りました。

いつものように笑ってお別れしましょう。

本当に今までありがとう。

Koshi Saito

2020.04.29.18.23

個展での再会を毎度、心待にして日々過ごしていました。悲しい
井田くん安らかに。
(Facebookより転載)

Bake A. ベイクエー

2020.04.29.18.23

心よりお悔やみもうしあげます。
お元気だった時に、手拭いのワークショップで、お隣で楽しく会話しながら、作品を作った事がとても印象深く、思い出に残っています。(Facebookより転載)

仲塚 庸子

2020.04.29.18.22

ショックです。心配してました。悲しいです。(Facebookより転載)

堀川 久子

2020.04.29.18.22

井田くん、闘病の日々、本当にお疲れ様でした。やすらかに。(Facebookより転載)

浅見 尚徳

2020.04.29.18.21

悔しい悲しい残念。(Facebookより転載)

Takayuki Minagawa

2020.04.29.18.21

お目にかかりたかったです。作品をまた鑑賞したいです。(Facebookより転載)

Tamaki Kodama

2020.04.29.18.19

井田さん、優しい笑顔をありがとう。(Facebookより転載)

Seiko Higashi

2020.04.29.18.19

その知らせは

かなしくて
さみしくて
それでも

ありがとうございました

(Facebookより転載)

伊野 美香

2020.04.29.18.11

もう一度会いたかったです。悲しいです。(Facebookより転載)

越智 郁乃

2020.04.29.18.11

お悔やみ申し上げます。一度芸術祭でお会いしただけですが、音戸から丁寧なお手紙を頂戴しました。次の個展でお会いできればと思っていましたが、残念です。(Facebookより転載)

五十嵐 奈穂子

2020.04.29.18.10

今さっき知り、悲し過ぎて、帰らなきゃなのき車のエンジンかけられません。信じたくない。認めたくない (Facebookより転載)

五十嵐 政人

2020.04.29.18.10

あまりにも悲しく、信じたくなく、ただ井田英夫さんのことを考えています。(Facebookより転載)

Endo Ryu

2020.04.29.18.09

井田さん、本当にありがとうございました。
僕は井田さんの創作に対する姿勢、作家活動に励まされてきました。
それはこれからも変わらないと思います。
どうか安らかに。(Facebookより転載)

押味 くみこ

2020.04.29.18.09

かなしいお知らせです。
もう一度会いたかったです。ご冥福をお祈りいたします。(Facebookより転載)

Shougo Nakao

2020.04.29.18.08

井田さんありがとう❤️
優しくて強い井田さん。
私の両親が他界したときも桔梗を一輪持ってきてくれたね。
また会おうね。(Facebookより転載)

ニコ ホタル

2020.04.29.18.07

初めてお会いした日の事が蘇ります。昔、私の個展に来てくださいました。数カ月前にも絵屋さんでお会いし、握手しました。信じられない。お元気になると祈ってました。(Facebookより転載)

Markus Kuo

2020.04.29.18.07

ご冥福お祈ります。。。すごく悲しいです。井田さんの繊細な絵が素敵。(Facebookより転載)

コイズミ アヤ

2020.04.29.18.06

本当に悲しい。(Facebookより転載)

Minoru Sasaki

2020.04.29.18.06

ゆっくりお話しを伺うことができたのは一度きりなのですが、心に残っています。井田さんの作品はざわめきのある作品だと感じています。一筆一筆が心にタッチしてくるようで、たくさんのざわめきがある。井田さんが旅立たれたあとにも、そこにはずっと暖かいざわめきが佇むのではないでしょうか。ありがとうとお伝えしたいです。(Facebookより転載)